セクハラ、その4

≪差別的用語・表現≫
 「審査の理由」の言う「差別的」が何を指すのかは記されていないものの、審査委員会におけるやり取りからその一部(?)は察せられる。既に反論した「犯人」や「イカれた」という言葉を文脈に沿って読めなかった、執行部の基本的なミスについてはくり返さない。他に委員会で久保田弁護士から質されたのは、「怪文書について」の「もっとも本人は納得しなかった模様〜」で始まる段落の「一連の行為がいかに『常識から外れている』(固着した中某像)かを見せつけるために石井代表が多数決を採った結果、」中の「常識から外れている」という言い方である。中某氏が「常識から外れている」例は実は当の文書中にも記されているのであって、「多数決の結果」が中某・○○(註〜別種類のハラスメント被疑者)の2票に過ぎず被疑者以外の支持がえられなかった「事実」がそれである。そもそも何の権利も無いのに、修士論文の審査委員会の「合格」報告書を勝手に書き換えてしまう行為を、執行部は「常識」の範囲内だと言うのだろうか? 
 審査委員会で久保田氏が他に「差別的表現」として取上げたのが「三歳児」である。「ともあれ中某なる存在は、穏やかに言って聞かしても伝わらない『三歳児』(私の命名で共感者多数)である」と使われている。久保田氏は「三歳児」は単に「者」に置き換えればいいではないかと言ったが、先の「常識から外れている」と同様の結論になるだろう。一般の成人が具えていると想定されるものが欠落している、という意味で両表現は共通しているからである。恐らく中某氏からの訴えが出されたので「三歳児」という言葉が取上げられたのであろうが、「三歳児」はそもそも私が赴任して間もない20年程前の講座会議で中某氏の使い込み「事件」(他人の研究費・旅費を無断で使い込む習性があった)を追及した際に発した言葉であり、何も今さら騒ぎ立てるのかが分からない。それほど「名誉毀損」と感じたならその時の執行部に訴え出れば良かったのに、今回ドサクサ紛れに詰め込む根性が下劣で理解できない。
ちなみに記憶に残っている講座会議における私の正確な発言は、(中某氏を真っ当な相手と思えない理由は)「三歳児だと思ってますから。」というものであった。会議直後にベテランの先生(ご存命)から「あなたはウマイこと言うねェ」(正確な言葉は復元できない)という意の言葉で賞讃されたので、ベテラン先生の言語感覚の鋭さに感心したのも確かである。若手の教員には「三歳児」という表現は「その通りですけど、なぜ同窓生なのに争うのですか?」とたしなめられたのも覚えている。私には全く見えなかったが、この若手は講座内の学閥間の葛藤で悩むことがあったらしい。いずれにしろ「三歳児」は「常識から外れている」と共に中某氏のイメージとして講座内や人文社会科学系教授会で共有されているのは間違いない(他講座の新人には通じないであろうが)。
久保田氏はまた「仮にも大学教授に向かって『三歳児』という言い方は失礼ではないか?」と問うてきた。「三歳児」に限定されなかったかもしれないが、どちらにしろそれに対する私の反論は明快である。「大学教授を特権化したり美化したりするのは間違いだ。」と言明した。そもそもそうした尊大な意識こそが他者(女性・アジア人・学生などの弱者)の「人権」を踏みにじって種々のハラスメントを強いるのだから。私が壊したかったのは己れを特権化しつつ他者の「人権」を蹂躙して省みない意識の在り方であり、それを茶化し・諷刺し・「犯罪」として自覚させることで被害の可能性を抑制することである。講座(主任)の注意もまったく無視し、学系長が(注意をしに?)研究室を訪れたらまた大声を発して聞こうとしない以上、また「お力のある」執行部が毅然とした姿勢で抑えることをせずに<見ぬフリ>を決め込もうと見えた以上、単独でも効果的のある言論活動を試みる外なかったのである。
と記しながら今思い出したのは、十年近く前の自主ゼミ機関誌『青銅』に発表した「大学の教授、なんぼのもんじゃ!」というエッセイである。昔と異なり学生の力が衰えている時代の到来をいいことに、学生処分の規定をめぐって高見から議論を重ねる教員達に同調できなかった気持を書いたものである。執行部が大学教授というだけで過大な自尊心を抱いているとしたら、私の文書に嫌悪を催して「言葉狩り」に終始したのもうなづけるというもの。教員現場に身を置く者にとって過大な自尊心なぞ邪魔にしかならない、というのが私の持論である。教員が必要以上にハードルを上げるからこそ学生・生徒が近づきがたくなり、平常では癒しを提供できず、またイザという時に保護できなくなるのである。そもそも教員たる者、常に弱者の立場で言動していれば間違いない、それで殺されたとしても犬死にはならない、とハラを括っていれば怖れる物はなくなるというもの。
「殺されたとしても」とは穏やかではないが、中某氏の種々のハラスメントの証言を集めた女性教員の学生達は、女性教員が飲むお茶に毒が入っていないかチェックしてからお茶を給仕するという。被害者の証言集を集めたのを逆恨みされ、女性教員が毒殺されかねないと本気で心配しているとのこと。たぶん女性教員も(私も)本気にはしていないが、「怪文書」にその経緯を記したように、修士論文の分野としての正式な合否判定書類欄の「合格」を、自分の研究室から他へ避難した腹いせに取り消して全学の会議を混乱させ、国語講座に「合格」を出すための会議をくり返させて、二つの会議の構成員の貴重な時間を無駄に消費させるほどの「キチガイ沙汰」をやってみせた御仁だから、毒殺も考えられないわけではない。しかしそれは「ポシビリティ」(頭の中だけの「可能性」)の問題であって「プロバビリティ」(実際に起こり得る「蓋然性」)の問題ではない(あえてこうした用語を使うのは学生達に覚えてもらうためだけではなく、審査委員会で私が使用したら久保田弁護士には通じなかったようで、キョトンとしたまま次の話題に移ったからである)。 
 この「キチガイ沙汰」は文書中で私が使った言葉であるが、執行部がこれを「差別的用語」と判断したとすれば迷惑極まりない。「キチガイ」は「差別語」かもしれないが、「キチガイ沙汰」は程度を表す表現であって差別語ではないと知った上で使ったもの。そもそも「キチガイ」そのものも程度の激しさを表すだけの場合も多く、日常生活でも使われている。また執行部が「審査の理由」でついでのように私のブログ記事を証拠として上げているが、その中に「クレイ爺さん」という表現がある。これを「差別的表現」と判断したとすれば、「言葉狩り」も極まった学大の暗黒時代と言わざるをえない。「クレイ爺さん」は「くれいじい」(英語クレイジー)と「じいさん」を掛けた言葉であり、「クレイ」にはフランス語で「土」の意味(全仏オープンクレイコートで行われることもあり、ある学内職員は「クレイ」の意味だけで受け取っていて「クレイジー」の意味も重ねられているのを知って驚いていたくらい)も重ねられている見事な掛け言葉だと感心している。「土気色した常識外れの爺さん」ということになるであろうか、「土気色」と訳すと「垢出みっく」(註〜「アカデミック」のシャレ、念のため)なイメージも加わって笑える。キャンパスライフ委員会の聞きとり記録の初稿では私の造語で自慢の種にしているように記されていたが(「三歳児」と混乱したか)、残念ながら学生の発話から私が採取した言葉である。昔の学生は「あのキチガイが!」と怒りを露わにしていたものだが(学生との間でよく問題を起こしていた中山氏を指すことが多かったようだが、セクハラが明るみに出ていなかったのでその頃の私は無視していた)、今時の学生はオシャレな表現をするものだと感心したものである。「関谷ゼミブログ」を読んだという卒業生から届いた先日の手紙にも「なんてナイスなネーミング!?」というのがあった。執行部が「差別用語」としている言葉は不明だが、今は懐かしい「クレイジー・キャッツ」のメンバーを誰も本物の「キチガイ」だと思っていない。
 中某氏を「本物」だという医学畑の人もいたが(学大には結構多い)、私は「正常の範囲内」(長くなるので出典略〜以前ブログに記した)だと確信している。そもそも狂人と常人との境界は曖昧で、線引きして<一義的>に限定することはできない「程度の問題」である。中某氏の場合は「常識から外れている」度合いが激しいのだと思う。例示のいくつかは既述のとおりだが、昔から中某氏に対する学生・同僚・事務官の苦情を受ける係の体(てい)だった私に寄せられたものはキリがないくらいで、受講したことのある学生の間でも「固着した」イメージが共有されていたようである。学芸大連合大学院(博士課程)を修了して今や地方の大学教員になった特別支援科学講座のT君は副免許が国語だったので、「中某先生の所に資料を借りに行ったら、他学科の学生には貸さない。」と言われて見せてもくれなかった、と言ってあやまたず私の研究室に来て「日本語学の資料はどの先生に言えば借りられるのですか?」と聞いたものだ。思えば苦情対策を中心として中某氏とは長い付き合いであるが、その他の細々とした苦情は他人の研究費・旅費を無断で使い込むのを止めるように忠告した書簡にも付した。「審査の理由」には私が中某氏に送付した書簡も「差別的表現」で「人権を著しく侵害」しているとしているが(一通は保存してあったので後で引用する)、その当時の書簡には「差別的表現」は皆無のはずである。まだセクハラが露見していなかったので言論による牽制・抑制をする必要が無かったし、「言えば分かる」という幻想もあったからである。執行部(と中某氏?)はセクハラとは無関係に、私が中某氏に個人的に害意を抱いていると勘違いした上で私を「処分」しようとしているが、その魂胆は既に分析したとおり。

≪弁護士と執行部に対する疑念≫
 私の文書に対する久保田弁護士の初歩的な誤読・誤解については既に記したとおりであるが、氏に対する或いは執行部に対する疑念は他に極めて強いものがある。執行部が久保田氏による「法の論理」に引きずられっぱなしで、教育的観点(被害者の立場に立つ)を見失っているという危惧もこの文書の最初の方で強調したとおりである。久保田氏が業務上「法の論理」に囚われたまま教育的観点に立てないのは已むをえないとしても、何も執行部が金魚のウンコさながら法的立場に色目を使っているばかりでいいはずがない。「容疑者の人権」を守ろうとするのは一般的には正しく私も賛成であるが、セクハラ等の犠牲者を守るために敢えて「容疑者」を茶化し・諷刺することで尊大な自尊心を壊しながらセクハラの被害者を癒し、「容疑者」のセクハラ再発を阻止しようとした私の言動に理解を示そうとしないのは、「容疑者」に同調しているようで呆れるばかり。大学人の知性・教育的観点がミジンも感じられないのは嘆かわしいかぎり。「容疑者の人権」に限らずいかなる理念であろうが、理念自体が絶対化されて現実や状況から切り離されて硬直化したら、自己閉塞的なイデオロギーに堕すほかはない。左右は問わずイデオロギーがそれ自身の論理を自己目的化して優先すれば、現実に苦しんでいる人々の現状とは無関係に空転せざるをえないのは歴史が示すとおりである。

 以前「行列のできる法律相談所」とかいう番組があって複数の弁護士がそれぞれの判定を競っていたが、そこで改めて明かされたのは法的判断(弁護士)の相対性である。六法全書に依れば必ず同じ判断が出るというわけではない、という当り前の事に気づかされたわけである。弁護士が違えば異なる判断が出るという厳粛な事実を、執行部は<見ぬフリ>をしているのか理解できないのか、久保田氏の判断を絶対化しつつ唯唯(いい)としてしたがっているようで情けない。恐らく執行部や審査委員会全体が法律について無知なため、心理的な負い目を覚えて逆らえないのであろう。相対的でしかない弁護士を絶対化して言いなりになっている姿は滑稽でしかない。滑稽ではあるが危険極まりないのは、「法の論理」の暴走によって冤罪の犠牲者が作り出されようとしているからである。のみならず執行部・審査委員会が教育的観点に立つことなく、大学としての知性・主体性を忘れて学大から大学の機能を奪おうとしている体(てい)なのである。審査委員会があたかも法廷内のやりとりであるかのように終始したのはそのためである。まさに東京学芸「大学」の終焉であり、学大の息の根を止めようとしているのは、現執行部以外のものではない。
 今年度は執行部に副学長の若手二人が加わり、危ぶむ声に反して私は大きな期待を抱いたものだが、二人羽織であろうが三人羽織であろうが大学が最低限その機能をシッカリ果していればいいからである。執行部の大幅な組織替えの全体的な評価は知らず、事今回のセクハラ問題ではまったくの失態に終っている。村松泰子学長・大竹美登利副学長共に女性でありながら(お友達感覚で選んだのではなかろうが)、すぐにセクハラ被害の女性に寄り添うことなく対策をいたずらに先延ばしにしたことはいかにも「遺憾」である。遺憾どころか(先日参加した坂口安吾研究会で話題になった作品名からの連想ではないが)久保田弁護士の言いなりになっているかぎり、道鏡の先例にも重ねられかねない危惧も出てくるというもの。
 久保田弁護士が私に個人的に悪意を抱いているとは思わないし(これを読んだ後は抱くであろうが)、恐らくは弁護士として教えられたとおりのルーティーン・ワークで審査委員会を仕切ったものであろう。教育的観点なぞ思いもよらないことであったろうが、それも久保田氏としては仕方ない。言葉を<一義的>に絞り込もうとするのも同然で、業務上自然な手付きだったのであろう。大学内の事例でも<一義的>に限定しようとする姿勢が当てはまるのは中某氏(ともう一人の「容疑者」)の場合であって、私の場合は不都合極まりないことが誰も分かってないようである。中山氏の「容疑」は<事実>のレベルの問題であって、私の場合は言葉の<解釈>の問題である。セクハラをやったか否かという事実を<一義的>に確定するレべルと、<多義的>な言葉の解釈を理解する作業は根本的に異なっている。後者が法律家には馴染まないことは、既に繰り返したとおりである。

≪言葉の多義性≫
 審査委員会では終始久保田弁護士(退席後は大竹副学長)が、私の文書における言葉の
意味を限定しようとする作業に付き合わされた。委員会は「キチガイ沙汰」には触れなかったが、「犯人」や「イカれた」という言葉については既に反論したとおりである。何やら久保田氏は一つの言葉は一つの意味に対応するのが理想だと考えているようで、私(達)の考え方とは大きく隔たっている。以前ブログにも書いたが、学生時代の同級生が弁護士になっていて2回ほど世話になったことがあり、御礼の酒席の議論で「法の言葉と文学の言葉」の差異の大きさにお互い驚いたことがある。彼の立場からすると、学界では高く評価されている私の名文も「言葉の意味が曖昧でよく分からない」と形無しであった。「僕らは最初に言葉を定義してから始めるのだけど・・」と言った彼の説明と、久保田氏の手付きは確かに共通するものがある。
「クレイ爺さん」が典型的な例であるが、文学の立場では多義性そのものを楽しむことは、シェークスピア(特に小田島雄志訳)や日本古典文学(掛け言葉を始めとする和歌の言語遊戯や近世のパロディ作品)をひも解けば、言葉の豊富な可能性に出会えて驚くであろう。近世、特に江戸文学以来になると絵画ともども時の権力を批判する技法として<言葉の多義性>が発揮されていて楽しい。近代では宮武外骨添田啞蝉坊がお勧め。もっとも表現者の側では洋の東西に関わらず、権力から死罪を含む弾圧を免れていない。死を賭してでも、貧相な言葉の世界の閉塞を破ろうということであろう。最近では学大の関谷一郎ということになるか?
久保田弁護士が<多義性>を排して<一義的>で「清潔」な言葉に限定しようと躍起(やっき)になるので、深い断絶と不快な失望を味わったが、呆れたのは状況や文脈を無視して単語のみを意味づけようとして完全に誤読していただけでなく、「 」(鍵カッコ)は強調の意味しかないと思い込んでいたことだ(委員会の録音テープのとおり)。文学では鍵カッコで強調することもないではないが、強調は< >など他のカッコを使うのが一般(例えば私のこの文章)。鍵カッコが引用を表すのも一般的ではあるが、鍵カッコでくくることによって本来のものではないことを表す、という基本的なことも久保田氏にはご教示した次第。それは何も文学の特権ではなく、日常でも使用されているとおりで、カタカナ表記と同様である。
(例)あの仲山の温泉好きは、ほとんどビョーキだね。(山本晋也監督が流行らせた言葉)
窪田さんはなかなかの「美男子」だね。イイ人だし。
【(例)に挙げた名前はすべてフィクションであり、実在する人物・団体とは関係ありません。】