イチロー引退記念口演記録(4)

「つづき」はいちおう書けたのだけれど、手直しや付け足しを考えているうちに食中毒(飯は冷蔵庫に入れておくように指示したばっかりなのに、テキが・・・)で二日ほど寝込んだりして・・・。
とりあえずいったん終了させておきます。

何を読んでいたか初めて明かすのだが、実は「三太郎の日記」を愛読していたのである。当時でも流行っていたわけではないが、きっかけを作ってくれたのは一年時の国語の名物先生だったと思う。思いつくと後先考えずにフラッと風のごとく旅に出るので「風」と呼ばれている、と自注してくれた。この齋藤孝弐先生は東大の国文科出ながら、気さくで冗談好きなので授業も楽しかった。賢治の熱狂的なファンで時々朗読してくれたりしたが、阿部次郎の「三太郎の日記」に《哲学者は淋しい甲虫である。》というケーベル先生(?)の言葉があることを教えてくれた(記憶違いか確認できず)。次郎の繰り返す「自己否定」という言葉に心をつかまれたのは、自己嫌悪に囚われていた時期だったからか。大学に進学したあと全共闘が「自己否定」を言い出したので苦笑が洩れたけど、少々意味がズレていたのでホッとした。
大学受験時に京都大学の哲学科に行こうと思い立ったのは、もう一人の東大国文科出の亀島貞夫先生(晩年の太宰治取り巻きの編集者だったとか)に背中を押されたためかと思っていたが、さかのぼるとこのケーベル先生の言葉に魅了されていたのかと今さらながら気付いた。でも二年生の時は京都大学理学部でゴリラを研究したいと思っていたのだから、人の進路というのは分からないものだ。京都大学にこだわったのは大学の印象だけでなく、ひたすら家から離れたかったからだと思う。しかし嫌いな理科一科目捨てても合格だ、と油断していたら見事に落とされた。頭に来て翌年は「俗物」のイメージを抱いていた東大を受けたのだから、その点ではイイカゲンな人間だったと思う。同学年には『シドク』の後書で触れた糸井重里など別の意味でイイカゲンな奴らがいたが、彼らが関わっていた生徒会活動には全く興味が無かった。彼らも自分も大学に行くと皆全共闘になったのだから、同じ穴のムジナだったのは間違いない。
自分の幸運を信じたのは、入学して二か月もしないのに全学無期限ストライキに突入したこと。むろん自身でもクラスをそう仕向けたに違いないのだけれど、当時は全国の大学が、そして日本全体が、あるいは世界が冷戦構造の閉塞感からの脱出を求めていた熱い時代だった(特定のセクトに限らず、反帝国主義反スターリン主義の気分だった)。だからストライキに向けてクラスを組織化するのは困難ではなかったけれど、あの熱さに通じるものを今の学生に感受する時があると、「遅れてきた青年」(大江健三郎の小説名)がカワイソーに思う。幸福な時代に生まれ合わせた自分らが、ますます生きにくくなる時代を強いられている「青年」たちを見捨てるわけにはいかない。しかし学大のハラスメントに対する反応を見ていたら、執行部を始め学生や卒業生と伴走する意志も能力も無い大学教員が目立ち、学生がますますカワイソーになる。
学生時代のことは書いたり話したりしているので、ここでは繰り返さない。全共闘運動を通過し終る頃、三好行雄という絶対の師匠(の論文)に出会い人生最初の論「『金閣寺』への私的試み」を、高校の同級生と出した同人誌に発表した(集いの際に配布)。その後その人の背中を見ながら今日まで生きてきたような、先人としての山田有策(の存在)を知ったこと、専門課程でもう一人の師であり理想的教師像である越智治雄と出会ったこと、越智先生の漱石論で師たちと同レベルの内田道雄という研究者がいることを発見したこと等々である。内田つながりで言えば、進級テストを拒否したら二年下の学年に落とされて内田樹と同級生になった関係で、彼のことをブログで一度ならず記している。「質より量」で書き過ぎだと思っていたので、先日のクラス会で会った時「最近はネタ切れだろう」とイヤミを言っておいた。他の「有名人」では鹿島茂や植嶋啓司が同学年なのだが、内田ほど知られていないようなのでここには書かない。
学大の集いでは当の山田有策さんを目の前にしつつ、全共闘時代における山田さんと自分との違いを分析してみせたが、それは山田さんがアジテーター(先導者・扇動者)だとすれば自分はオルガナイザー(組織者)だというものだった。前者が多勢の人間を全体として動かすパワーと技能を持っているとすれば、後者は一人一人を個別に説得して回るという在り方である。山田さんとの関係をジャイアンとスネオに譬えるとウケるので嬉しいのだが、スネオはしょせんアジテーターにはなれないという自覚は保持し続けている。「質」はともあれ「量」は扱いかねる。「小国寡民」こそが理想像。でもスネオはスネオである。それでいい。
あまりにも巨大な存在だったゆえか三好行雄師にも「理由なき反抗」をした一方で、越智師には心を許してなついていた。徒然草に《人でなしと見ゆる者も良き一言は言ふめり》とかいう言葉があったと記憶するが、《あなたにとって三好先生が父で、越智先生が母なのだ》とは自家の「人でなし」の名言である。イチローを「少年!」と呼び、他の学生がやっかむほど評価してくれた越智先生が、齢五四の若さで病死された時の悔し涙は今でも拭いきれない。その晩年に不自由な身体を扱いかねておられた先生を見るに忍びなく、平気な顔で茶化して笑いに紛らしていたものだ。そんな自分を想起すると、ボケが進行して手のかかる自分を「介護」してくれている最後の院生・宮川竜太朗が重なって見えて笑うことがある。先生と比べると十年も馬齢を上乗せしてしまった計算だ。退け時に違いないのである。(了)