学会参加と感想(日本近代文学会と昭和文学会)

24日に日本近代文学会春季大会に行ってきた。
先日まで同僚だった千田洋幸氏が登壇するのいうのも魅力だが、一橋大院の授業で切れ味の良い発表や発言をしていた黒岩裕市クンの発表がお目当てだった。
会場は十数年前に院の非常勤講師を続けていた聖心女子大だったが、恵比寿でメトロに乗り換える際に逆方向に載ってしまい、中目黒から折り返したら渋谷に着いてしまって???
当今いろんな路線が乗り入れて便利になっているようながら、田舎モノやボケ老人には却って混乱の元。
渋谷からまた恵比寿に戻ってやり直して広尾に着いたが、十数年も経つとすぐには大学の方向が分からなかくてトシを感じた。
開会時間に間に合うはずだったのに、回り道が過ぎて大幅な遅刻、世界は日増しに生きにくくなる一方だ。
聖心といえば、その頃の受講生のハタ坊が子育てをしながら某国立大学の院に再入学してガンバッテいるのが嬉しい。
先般相談に乗った時は、意欲には感心したものの不安が残ったが、優秀なスタッフのいる大学で引き受けてくれたので期待している。

テーマが80年代だったので、その頃は時代に即して生きていなかったためか、最初の発表には殆ど興味が湧かなくて困った。
黒岩クンが発表する予定だった「桃知娘」も(というより橋本治を)全く読んだことはないが、次の発表者が取り上げた林真理子は嫌悪の対象ではあっても読書の対象と思ったこともないので、種々初耳で教えられたことはあった。
でも林真理子を読んでみたいという気も起らなかったが、発表者自身が愛読しているわけではないと洩らされると、何の学会なのか???(社会学に近いか)
千田氏がテーマに関わるタームをボードリヤールに依りながら説明してくれたので、発表者の意図が分かりやすくなったと共に、シンポジウムの傾きと片寄りがハッキリした気がした。
黒岩氏が参加していれば、この片寄りが矯正されたのではないかと惜しまれた。
ともあれ林真理子のテクスト分析が全くといっていいほど欠落していると、「流儀」の違う私としては刺激は受けても表層に止まり、自分の文学研究には役立たないのでツマラナイ。
終ってから師匠・三好行雄の命日に合わせた毎年の集いに向かったのだが、その途次に某県立大学のオスギ学部長から80年代というテーマは昭和文学会が取り上げたばかりなのを知らされ、これも???
(企画に関する情報は、両学会が交換し合っているはずなのに。)

和文学会といえば、4月の研究会は24日の近代文学会とは異なり、全体として面白かった。
これも学大博士課程修了生でもある実力者・近藤ハカセ(通称)が発表するというので行ったのだが、期待以上に充実したものだった。
ハカセの唱える臨床文学論によって、山本昌代のビョーキ小説の読み方を教えられて「眼からウロコ」の経験をしたことがあったが、他の読み方を提出できぬまま臨床文学論を頭ごなしに否定しても不毛だろう。
もう一人・佐藤泉女史の発表も足を運ばせる理由ではあったが、いつも以上にテクストの外側ばかりの分析で期待が外れ、本人の心配を超えて会場の理解を得られていなかった。
抱えているテーマに誠実に引きずられる形で研究に止まることなく、実際行動に参加するまでになるという道行には同情しつつ応援する気持を抱いて発表を聴くのだが、やはり私の「流儀」からすると肝心のテクスト分析が欠落していると手ごたえがなくツマラナイ。
社会学ではなく文学研究からすれば、佐藤氏が引用する老婆の言葉をこそ解釈してみせるのが大事であって、それを「私にはまだ理解できない」という段階で発表されてもサビ抜きの寿司を食わされているようで美味さを感じない。
テクスト分析ができないヒトに期待しても始まらないが、佐藤氏は漱石でその才を発揮してみせた実績があるので、つい文句も言いたくなるというもの。