解説本(デリダ  朱子・王陽明)

「読む」という新しいカテゴリー(欄)を設けて、読んだ本の感想を記したりおススメ本の紹介をしたい(今までは「つぶやきイチロー」に書いていたことを別の欄に分別するということ)。
とはいえ読んでばかりいる生活ではないので、それほどの頻度ではないはず。
読みかけたまま放置してあるものを含めると(読み続けないと決めたのは除外)、今もおそらく30冊くらいの本を読んでいる最中ということになりそうだ。
飽きっぽい性格のためもあるだろうが、毎日の仕事に追われて果たせなかったのが主因だろう。
退職して余裕ができたせいか、最後まで読み終るものが現れるようになった。
少しずつ読み進んで最後まで行き着いたものに、最近では「現代思想冒険者たち」(講談社)のシリーズ中の「デリダ」(廉価版)がある。
いつ購入したか全く覚えがないが、高円寺の古書店のラベルが貼ってあるから、教科書の編集委員をしている桐原書店が新宿に移転する前のことだから10年ほど前だろうか。
格別読みたいというわけではなかったが、持っていればいつかは読むかもしれないと思い(安いし)買ったものと思われる。
この種の解説本は著者によって当たり外れが大きいものだが、「デリダ」は高橋哲哉という人が分かりやすく説いてくれている。
その反面では、ムヤミにシチメンドクサイ問題を微に入り細に入り追究しているデリダを、日本の読者がどこまで理解できているのか不安も抱かされもする。
しかし「脱構築」やら「差延」やらとは何かを知っておきたい人にはお勧めできるし、個人的には半世紀来の疑問が解けて感謝感激したものだ。
高校時代にソクラテスが「悪法もまた法なり」という言葉を残しつつ、その「悪法」に従って毒杯を仰いだと教えられたが、その意味が全く分からぬまま今日まできたのだが本書のお蔭で解決した(詳細は本書を参照してもらいたい)。
こんなことならもっと早くデリダを読んでおけば良かったとも思うけれど、流行りものには強く拒絶反応する性格でもあるので読む気になれなかった。
日本人は何でも同一化傾向が強いようで、「バスに乗り遅れるな!」のスローガンに代表される戦時中の大政翼賛とか挙国一致とかの掛け声に典型的に現れている。
反対する者には「非国民」というレッテルを貼って排除した情けない歴史を負っている。
現在でも評判の食べ物ではすぐに行列ができるし、読書でも皆が同じ本を追っかけているのは学会でも一目瞭然で苦々しいかぎり。
受験生でもあるまいし、周りと同じ本を意に反してまで読まされるよりも、同調圧力に抗して「非国民」呼ばわりされる方がマシだと考えている。
学大に赴任した20年ほど前に『エクリチュールと差異』が流行し、学大では話題にならなかったものの宇大の卒業生が読書会をやっていると聞いて驚いたものだ。
非常勤講師をやっていた、新しモノ好きな立教院生の中でも突出していたトノ君に、デリダの言う「反復」はキルケゴールの「反復」と関連があるのかと質したのを覚えている。
というのも、高校卒業した春休みにキルケゴールの「反復」を読んだものの、どう解釈したらいいのかサッパリ解らなかった記憶があったからだった。
学生の頃の疑問と、眼前に流行している思想とが結び付きつつ一挙に解明されることを願ったものの、「関係ないです」の一言で願いは儚く壊れた。
高橋氏の解説にはしばしばキルケゴールが出てきたので、まんざら無関係でもなさそうだという感触を得たが未詳のままだ。
デリダもご多分に洩れず、先行する思想家から多くのものを引き継いでいるので、「反復」もその一つだと単純に受け止めていいのか、どなたかご教示願えれば有り難い。

もう一つ、とても参考になった解説本が「世界の名著」シリーズ(中央公論社)中の「朱子 王陽明」である。
例によって始めに数十ページにわたる解説「近世儒学の発展」という題で、荒木見悟という人が要を得た説明をしてくれていて教えられた。
朱子よりも王陽明の思想を知りたいというモチーフで買ったばかりの本なのだが(この種の本まで300円くらいで買える現代の若者は幸せだ)、大塩平八郎(と謳外)や三島由紀夫がらみの関心に応えてくれながら朱子についても解説してくれて助かった。
一方でこの種の解説のマイナスといえば、それで解った気になって当のテクストを読まずに済ましがちだということである。
荒木氏の解説はまだ読了していないのだけれど、解説を読んだだけで本文まで行かずに本棚に戻しそうな予感に負けそうな自分が情けない。
文学書だと反対で、テクストを読んでも解説はメンドクサイ(多くはツマラナイ)ので読まずに済ますことが多いのだけれど・・・