放送大学  高橋和夫  青山昌文

退職前からテレビはよく見る方で、特にお笑いの番組は学生よりもだいぶ早く面白いのを見出して推薦するので驚かれつつも感謝されていた。
大体は3度の食事中(人より1回分遅れているので夕食は午前0時頃になることも)にテレビを見ているのだけれど、退職後は余裕でいろんな番組を漁って見ている。
殊に「教養」番組を見る機会が多くなったのは、五木寛や小椋圭が「60の手習い」のように大学に再入学して勉学に励んだ心境とつながるように思われる。
五木寛が仏教を学び直したように、このお二人はかなり専門的な学問に特化して勉強したようだけれど、ボクは生活が単調にならないための刺激・気晴らしの程度の気持からである。
あくまでも「教養」のためだから、勢い放送大学の番組が多くなるのも自然の流れと言ってよかろう。
3月に催された、内田樹の学年の同窓会については記したと思うけれど、その際に前放送大の副学長・吉田光男(学生時代には長いこと下宿で隣り同士だった)も同席していて《オレは放送大の学生の人気では2番目だ》と自慢していたけれど、たぶん文字通りの「人気」なのだろう。
ボクのお笑いのセンスの師匠の一人である吉田は(もう一人はカワカムリで、我々3人はクラスのお笑いトリオだった)、長いこと活躍した河合塾でも人気者だったそうなのも納得できるオモシロ人間だ。
しかし専門の朝鮮古代史の講義はそれほど深みのあるものには感じないので、視聴者の人気は内容(無いよう)よりもその人柄が認められたのだろうと推察している。
「歴史と人間」シリーズでは孫文を担当していたが(何で吉田が孫文なの?)、大手からではなく搦め手から攻める戦法で孫文の裏ネタに絞った「お話し」に終始していたので、歴史的な存在としての孫文の重さは伝わってこなかったのは残念。
放送大の番組でトップの人気は誰なのかは聞き忘れたけれど、個人的には現代国際政治の高橋和夫さんだと評価している。
イスラム世界の専門家のせいか目新しい内容ばかりである上に、授業のやり方にも工夫を凝らすことが多いので楽しめ、話し方も上手いので高橋さん以外にナンバー1は考えにくい。
吉田も話し方がチョー上手いけれど、放送大学の副学長なら他の教員の話し方を指導したら良かろうものをと強く感じさせられる教員がいる。
学大にもどの大学にもその手の下手話しかできない教員には事欠かないけれど(一橋大では教員相手に授業のやり方のレクチャーをしているそうだ)、授業形式からし放送大学の教員なら聴きやすさを追求・工夫すべきだろう。
たかが45分だけの講義なのに、「実に、まさに、まさしく、きわめて、いかに、十分に、素晴らしい」を何度も連発しつつ、挙句の果ては「印刷教材に書いておきましたけれど」というフレーズまで間を置かずに繰り返されると、知能程度まで疑いたくなるというもの。
見た目のイメージから「美学やら芸術やらとホザイてないで、外に出てラグビーでもやってろ!」と言いたくなるほど。
美学が専門らしい青山昌文という教員がそれなのだが、同じ美術の講義でも日本美術担当の佐藤さん(実に興味深い内容)と比べると青山氏の日本語能力の低さが歴然としているので、吉田あたりが再教育すべき必要を強く感じたものだ。
とかく美学という分野には人がいないのかもしれないが、ディドロ―以外のことになると知識を羅列したフツーのことしか言えなくなってしまう。
特にヒドかったのが演劇の講義にシャシャリ出て、オペラやミュージカルを担当して外的な説明ばかりで何の分析もなく白けさせられた(吉田の孫文よりずっとヒドイ)。
他の演劇担当者はレベルの異なる面白い講義をしてくれ、とても刺激されて多くを学べただけに青山氏の担当分がミスキャストだったということなのだろう。

日本古典文学も専門外なので覗くことが多いのだけれど、島内景二ご夫妻と渡辺泰明の3人が分担して当たり障りの無い話をしている印象だが、視聴者に合わせたレベルということなのだろう。
景二氏は面白そうな著書があって未読ながら『御伽草子の精神史』という本を持っているのだけれど(先年若くして病死したナベちゃんのお勧め)、講義では一般向けを意識しているせいかそれ程の刺激は無い。
タイメイは東大院生から総スカンを食っている(いた)そうなので講義内容はハナから期待はしていなかったけれど、イナオカ譲りの地声朗読を番組内でやらかすので聴く側にとっては苦行という外ない。
あのダミ声をよくも公共の電波に乗せられたものだ! と厳重に抗議しておきたい。
稲岡さんは理論嫌いで心の狭さを表していたが声はヒドクなかったが、タイメイもせめて朗読はアナウンサーに任せるくらいの気配りがあって良かろう。
古典の専門家に(怒りを込めて)聞かされたことがあったのだが、とかく稲岡耕二氏以来、東大の万葉研究者の人事は疑惑に満ちているそうな。
稲岡氏在職中から同じ万葉研究者を採用し、2つしかない古典ポストが万葉だけで占めて大いに顰蹙を買ったとか(何よりも学生がカワイソー!)
ただし現職の品田クン(と敢えて呼ぶのは前橋高校の後輩だから)に関しては日本中が認めた業績があるのだから、誰も文句は言えまい。
品田クンがいけないのは、パトリオティズム(前橋や前橋高校に対する愛)が強すぎて、ボクのような上州よりもシモツケ(下国)ファンを自称する者にまでマエタカ(前橋高校)の同窓会に加入を迫るところである。
それを言わなければイイヤツなのだけれど・・・

@ 以上はテレビで映画「武士の一分」を見ながら記したもの。
関心はあるけれど読んだことはない藤沢周平の原作で、監督が山田洋次だというので見始めたらキムタクが可笑しかったこともあって最後まで見てしまった。
桃井かおり笹野高史が脇役としてイイ味出しているのも映画の価値を高めている。
ことに笹野はやはり身分の低い役柄が合っていると痛感したものだ。
以前は充実していたNHKBSの演劇録画番組で「ワーニャ叔父さん」の主役を笹野がやっているのを見て、続けて観られないほどガッカリしたことがある。
あれほどヒドイ! ミスキャストを観たことはない。
笹野が貴族の役柄に合わないことくらい分からんプロデューサーがダメなんだろうけど、舞台全体を壊してしまっていた。
「武士の一分」では下級武士の下働きの男を演じ、とってもハマっていて笹野という役者を本気で見直した。
彼を最初に観たのはまだ六本木の狭い地下でやってたオンシアター自由劇場(アングラって分かるかな?)で、串田和美演出の「上海バンスキング」に出ていたようだけど、ハッキリした記憶は無い。
キムタクの可笑しさは当初は目論まれたものだけれど、話が深刻になっていく後半は計算外の笑いを誘われてしまった。
舞台が東北地方なのでキムタクもその放言で「武士の一分」を発音するのだけれど、それが「ブスのイツブン」と聞こえてしまう。
お笑いの師匠である吉田光男なら、「ブスは一分(いっぷん)も見ちゃいられない」という意味だと解くだろうか?
ちなみに吉田夫人たるアッちゃんは、美女とはいえないもののブスではないピアニストである。