山城むつみ  小林秀雄論

山城むつみという文芸批評家は、久しぶりに現れた深みのある存在だということは前に記したと思う。
群像新人賞のデビュー作が小林秀雄論だったせいもあって、名前だけは記憶にあったものの、キチンと読み始めたのはつい最近のことだ。
研究室に備えた『文学のプログラム』の単行本も手つかずのまま定年を迎えた、というのが恥ずかしながらの事実。
自分の小林秀雄論をまとめてからは小林から遠ざかりたい心理が働いて山城論も読む気になれなかったのか、学内外の仕事が忙しくて読んでるヒマがなかったのか、その両方だったのか放置したままだった。
退職したら小林も読み直したい気持があって、辞める前ながら山城さんの「蘇州の空白から」(『新潮』2013、4)が発表された時はすぐに入手したのだが、繰り返しが多いわりに論の行先が見えないので4分の3くらいまでしか読めなかった。
五味渕典嗣さんの「友情――小林秀雄火野葦平」にも背中を押された感じでいよいよ山城さんの「小林秀雄のクリティカル・ポイント」を読んだのだが、最初から批評家としての手応えを感じさせる優れ者が現れた感じ。
しかし誰にしもありがちなデビュー作故の粗さは読み飛ばそうとは思いながら、気になっている1点だけは記しておいて大方のご教示・ご批正を仰ぎたい。
「3」の冒頭近くに「解釈を拒絶して動じないものだけが美しい」という「無常といふ事」の著名なフレーズを引きながら、続いて「『罪と罰』Ⅱ」を引用するのだがその末尾、
「一条の白色光線のうちに身を横たへ、あれこれの解釈を拒絶する事を、何故一つの特権として感じてはいけないのだらうか。」
に注目しながら山城氏は「ほぼ同じ言いまわし」と括るのだが、果たしてこの二つは「ほぼ同じ」と言えるのだろうか?
「無常といふ事」の「解釈を拒絶して動じない」のは対象の在り方であり、「罪と罰」論の「あれこれの解釈を拒絶する」のは小林という主体が選ぶ在り方として全く逆だと思うのだが、どうだろうか?
批評は研究とは異なるのだから細かいことに拘るのは無用と言われればそれまでなのだが、面白ければイイという批評の特権(エクスキューズ)を持たない研究としては緻密な読み取りと論理に賭けるしかない。
大昔、日本近代文学会で小林秀雄特集を組んだことがあり、故吉田熈生先生と高橋英夫氏との3人でシンポジウムをしたことがあった。
詳細は『現代文学』31号(1985、6)掲載の「小林秀雄論の課題」に記したとおりだが、高橋氏の小林論「歩行と思索」の論理があまりに粗雑なので席上質問責めにしたのだが答えが得られず、終了後に氏から「今日はヤバイと思っていた所を皆突かれちゃいました」と言われて苦笑せざるをえなかった。
山城氏の論理が高橋氏並みに粗雑だというのでは全くないのだが、私には受け入れがたい飛躍があるように見えるので、こちらの誤読の可能性も含めてご教示願いたい次第、ヨロシクね!