岩田問題、その後

岩田というと、以前ブログにも記した元学大教員の岩田重則氏にまつわる問題のようで笑いが洩れる。
あのジコチュウで大学教員の典型のような御仁だ。
学祭において学生が音出しするのが耐えられなくて、学内広場での演奏会を阻止しようと訴えつづけた挙句、演奏会後の恒例の噴水池飛び込み騒ぎまで止めに入り、それがあたかも人命救助をしたかのように教授会で得々と報告したオバカで笑わせてくれて誤人(敢えての誤字)だ。
前振りはこのくらいにして本題の岩田真志氏のオバカならぬ低能な誤読の件である。
まさに拙稿の前振りの部分をまったく理解できぬまま、私に対する非難の言葉を重ねた件である。
いつもの明朗会計のやり方で、岩田氏と私の双方の該当箇所を引用して皆さんの判定を仰いだもの。
残ねながらまだご意見は届いていないけれど、その後がどうなったかを皆さんに報告しなければならない。
クダラナイ問題なのであまり長くならないようにしたいので、要点のみを記しておきたい。
一言で言えば、正面から全面的な平謝りの姿勢でメールしてきた。
電話でも謝りたいと言ってきたが、断ったのにそれでも電話してきたので出るのを拒否した。
大人気ないように見えるのももっともながら、大人も子供もない、体が死ぬように心が死んだのである。
死んだモノが生き返るはずもない。
個人宛てのものだから岩田氏のメールをそのまま引用することは控えたいが(あまりに長いし)、問題にからむ箇所の最低限の範囲で引用させてもらう。
問題になった2点については以下のように反省している。

《この二点は、平素より陰に陽にご恩を賜っているその温情に甘えきってしまい、
先生ならわかってくださるだろうと勝手な判断をしてしまったことにあります。》

岩田氏にそれほどの「温情」をかけた覚えは無いものの、「甘えきって」書いたというのは素直な気持なのだろう。
しかしあまりにも度が過ぎた! 
「甘え」もあるのだろうけど、「通信」に合評会の感想記事を連載したことで慢心が生じたためもあったと思われる。
研究者でも文芸時評を書きたがるアホがいるように(文壇の批評家でも書ける人がいない難しい状況なのに)、小さな研究誌でも評論を書くチャンスを与えられたのでハシャギ過ぎたものと察している。
自分だけが任されているという特権意識が、自省と自制が効かなくなってしまったものだろう。
自己像が肥大し過ぎると、楽天三木谷社長のように余計な所で口を出したくなるものだ(この件は前に記したが、下劣な岩田問題だけに絞っても「教訓」にならないので)。
さて岩田氏は拙論が全く理解できない低能なのかと思ったら、次のような弁明もある。
私のブログ記事を読んだようだから、それで己の「誤読」に気付いたのかもしれないが、やっと誤りなく読めたので謝りたくなった(いちおうダジャレ)のかもしれない。

《先生は、「若年時の疑義」をふまえて、「現時点の理解」も載せておられます。
その点については、「通信」ではきちんと言及いたしませんでした。
結果、先生の「若年時」に対して口吻さめやらぬような物言いをしてしまったのでした。
先生ご自身は謙虚にも「未熟者」と謙遜しておられるのにも関わらずです。
本当に失礼極まりない、放言を吐いたものだと猛省しています。
許されることなら、次回の「通信」では撤回させていただきたく思います。》

「猛省」しようが、死んだモノが蘇らない以上、「撤回」しても生き返らない。
ただし岩田氏本人の問題として、この「猛省」が生かされるかどうかが今後の課題だろう。
広島長崎の原爆を開発した科学者や投下したパイロットが「猛省」し、その後は反核の立場になったように。
ただし投下を許可した低能そうなトルーマン大統領も、国家としてのアメリカも未だに被爆者にたいして謝罪していない。

文意の不明確な1文についてはまだだった。

《もうひとつは、「三島をテクスト外に措ききれていない」の箇所です。
これは、先年に入会した研究員のEメールによるコメントだということです。
最大の過失は、合評会の時に「ではどの部分において『置ききれていない』のか」、
の議論もならなかったこと、そして、その発言者にその意図を確認しないまま、末尾に載せてしまったことにあります。
「三島をテクスト外に措ききれていない」も、私自身、「置」だろうとおもっていました。
彼にしても、若い教員です。この件はまだ伝えてはおりませんが、
共々に情けないことだと思っています。
先生、今こうやって、教員をやりながらも研究をし続けられているのは、
先生のおかげが非常に大きいのです。》

要するに合評会とは名だけもので、ろくに掲載論文も読んでないモノや正確に読む能力に欠けるモノが集まり、放言を認め合いながらの呑み会に過ぎないのだろう。
岩田氏は悪辣な安倍政権やオバカそのものの石原慎太郎を引き合いに出しているが、自浄能力に欠けるのは政治屋だけではない。
論理で闘い合うべき文学研究の場で、言葉についても無知で論文の理解力に欠けるモノの放言がチェックされずに野放しにされるというのは、世も末・研究所も末期的症状だということだろう。

《それをこのようなかたちで裏切ったことにふがいなさと申し訳なさでいっぱいになっています。》

前便メールで記したように、この研究誌には望まれて同人として加入したのであり、当初から若い研究者のために良かれと微力を尽くしてきたという意識があるので、「裏切り」という岩田氏の言葉は正確だ。
他人(ひと)から裏切られたことは1度ならずあり、最悪の裏切りは大学後輩からのものである。
地方の中高校で教員をしていた数年間は深夜でも数十分の電話相談に乗ること年に数回、その後に研究者になりたいというので本人の書いたものを論文の形にまとめてあげることまでして、何とか論文も揃って東大閥のお蔭で大学に就職できたものの、セクハラを含む「あばれる君」のためにクビになってしまったバカモノのことだ。
クビになるまでは、彼の主治医である精神科医が呆れるほどの面倒をみてやったものだ。
本人は何事もビョーキのせいにして「甘え」ていたが、まさに「恩を仇で返す」やり口にはこちらの心が死んで関係を断ったしだい。
それでも忘れた頃に、何事も無かったように電話してくることがあるので、「オマエにはウンザリだ!」と言って切ることにしている。
岩田氏に同様な態度を取ろうというのではないけれど、「裏切り」はもうウンザリなのだ。