桐原書店国語教科書コラム

今は新しい教科書の編集作業と共に新しいコラムも書いているのだけれど、既に使用されている教科書のコラムは公表してもいいものと判断してお目にかけます。


太宰は笑えて、深くて、上手い!     
「畜犬談」は太宰文学らしさが前面に出ている作品である。太宰治の小説の特色は、何よりその巧妙な一人称の〈語り〉にある。様々な方法が試みられた最初の創作集である『晩年』には三人称形式の小説も見られたが、その後の太宰作品のほとんどが一人称であることは知っていた方がいい。中でも「畜犬談」が発表された昭和十年代半ばには、『晩年』の頃とは異なり生活も安定していたせいもあってか、「富嶽百景」・「女生徒」・「駈け込み訴え」といった絶妙な語り形式の傑作が並んでいる。
 太宰文学のもう一つの特色は〈笑い〉であり、日本の近代文学史にあっては漱石以外には見出しにくいものである。太宰の笑いは直接的には文学上の師とも言うべき井伏鱒二を受け継いでいるが、太宰が井伏から学んだのは「山椒魚」に見られるような自虐的な笑いである。太宰がいかに多くのものを井伏から吸収したかは、「山椒魚」と「走れメロス」の冒頭を比べれば一目瞭然であろう。
 山椒魚は悲しんだ。
 メロスは激怒した。
 作品全体に通底する、主人公の「悲し」さや「怒」りといった情調が、冒頭の一文に集約されている点で、両者は相似形をなしている。居心地の良さのままに岩屋に引きこもっていた山椒魚が、二年後に気付いたら身体が成長しすぎて岩屋から出られなくなっていた、という他人事だからこそ笑えるバカバカしい窮状。他人から見れば笑えるものの、本人にとっては七転八倒の苦しさが、実は他者との関係に傷ついて自己閉塞しがちだった井伏自身のものであったという意味では、笑いが自虐にまみれたものであったわけである。「山椒魚」と「畜犬談」との差異は、前者が三人称形式ゆえに山椒魚を言葉で「虐」げているのが語り手であるのに対し、「畜犬談」の方は語る「私」と語られる「私」が同一なので、文字どおりの自虐になっている点である。
  諸君は、発狂した山椒魚を見たことはないであろうが、この山椒魚にいくらかその傾向がなかったとは誰がいえよう。諸君は、この山椒魚を嘲笑してはいけない。すでに彼が飽きるほど暗黒の浴槽につかりすぎて、もはやがまんがならないでいるのを、諒解してやらなければならない。(「山椒魚」)
  けれどもあくまで油断は禁物である。犬の傍を通る時は、どんなに恐ろしくても、絶対に走ってはならぬ。にこにこ卑しい追従笑いを浮べて、無心そうに首を振り、ゆっくり、ゆっくり、内心、背中に毛虫が十匹這っているような窒息せんばかりの悪寒にやられながらも、ゆっくりゆっくり通るのである。つくづく自身の卑屈がいやになる。泣きたいほどの自己嫌悪を覚えるのであるが、これを行わないと、たちまち嚙みつかれるような気がして、私は、あらゆる犬にあわれな挨拶を試みる。(「畜犬談」)
 調子に乗った語り手が、主人公から十分な距離をとりつつ山椒魚を茶化しきって笑いを誘っているのに対し、「畜犬談」の「私」の自分ツッコミはあまりに過剰で、「自身の卑屈さ」や「自己嫌悪」がどこまで本気なのか判断しかねるところがある。聞き手(読者)の笑いを得るために、嘘を交えて語っているフシも感じさせ、本人が意識して嘘を吐いているのか、自覚せぬまま嘘を交えているのか不分明と言えるほど巧妙な語りとなっている。語りが騙り(かたり)に通じるとは人間の心理であり、さらには真理でもあろうが、「畜犬談」の「私」の語り(騙り)こそその高度な達成であろう。
 その一例が毒の問題である。
  私は立ちどまり、ぽとりと牛肉の大片を私の足もとへ落して、
「ポチ、食え。」私はポチを見たくなかった。ぼんやりそこに立ったまま、「ポチ、食え。」足もとで、ぺちゃぺちゃ食べている音がする。一分たたぬうちに死ぬ筈だ。
 「私」はポチの「食べている音」は聞いているものの、毒まで食べたのを見届けたと語っているわけではない。そもそも牛肉の中に薬品を忍ばせたのか? と問い始めると一人称の語りである限り、確証はどこまでも摑むことができない。帰り道での「私」の苦しげな物思いは、己れの嘘を糊塗するためのようにも見える。
一方「浮かぬ顔していた」と二度繰り返されている妻の表情は、夫の嘘を見抜いている、少なくとも嘘かもしれぬと見抜きながらも許容する、母なるマリアの情愛に通じている。マリアとはいささか唐突かもしれぬが、太宰文学にあってはお馴染みの存在である。父なる神が善悪を峻別しつつ裁くのがキリスト教の基本だとすれば、善と悪の二分法とは別次元にあって、無限に許し続けるのが「ヴィヨンの妻」、「斜陽」の母、「浦島さん」の乙姫といった女性達に止まらず、「右大臣実朝」のような男性の形をとることもある。実朝に限らず、無限抱擁の底に虚無が潜んでいるところがまた、太宰文学の深さでもあろうか。