安藤宏 (VS) 松本和也

落掌したばかりの『日本近代文学』第93集に、安藤宏が書いた松本和也『昭和10年代の文学場を考える』書評が載っていたので、とっても面白く読んだ。
松本書については通読した感想を記したばかりであり、おまけに安藤氏と共に「畏るべき後生」として2人を括って敬意と不満を付したところだったから、人の10倍楽しく読めた書評だった。
紙幅に余裕があるとはいえ、松本書の内容を逐次紹介しているのは律儀な安藤氏の性格が現れたのだろうが、その分をもっと〈私情〉で満たしてもらいたかった。
書評の冒頭部で安藤氏は、
《テクストそれ自体よりもテクストが同時代にどう評されたか、という言説群の検討を通して、そこに働く力学を抽出することがめざされている。》
と要を得た解説をしているものの、「走れメロス」や「清貧譚」に関する松本氏の斬新な(?)読みの試みには危惧を強めに示している。
《読むには無理がある》《論証が不足している》《物語内容のとらえ方を偏頗なものにしてしまっている》などという〈私情〉がハッキリ出されていて面白いが、「無理」も「論証不足」も「偏頗」なものとして敢えて提示されていると受け止めた私としては、安藤氏の側に「無理」を感じているところ。
種々の状況というコンテクストからテクストを読めば、先行する読みからどこまで〈逸脱〉(関谷の言葉)できるかという〈恣読〉(同前)の試みだと受け止めたので、「論証」としては十分であり「無理」も「偏頗」も承知の上で松本氏がテクストの〈読み換え〉の可能性を探って見せたのだと考えている。
安藤氏は自分の評全体を「ないものねだり」としているが、自身でも信じ切っているわけではないテクスト分析を緻密に構築した確信犯に「ないものねだり」をする愚に気付くべきだろう。
ひところ流行った「こころ」の書生が先生の妻と再婚するだの、「春琴抄」のヒロインが自身で煮え湯をかぶっただのという金無垢の〈恣読〉のバカバカしさと松本氏のメロス論を同列にはできない。
松本氏が提起した読みは「こころ」論等の単なる思い付きのウケ狙いではなく、あるコンテクストを前提にすれば〈読み換え〉の可能性が開けることをキチンと論理付けた刺激と面白さ、それが伝わってきたのは私のボケ進行故だろうか?
以上はあくまでも松本書についての私の〈読み〉であるが、期待の余り私が松本氏を買いかぶったため、安藤氏の評に疑念と不満を覚えたのだろうか?
ともあれ著書の該当箇所を再読しなくてはならない。
松本書に刺激されたのを有り難いチャンスにして、買い溜めたままの未読の書を既読書ともども読み始めたところながら、また松本書にも戻りつつ高見順・野口富士夫・杉森久英・大谷晃一・吉野孝雄深田祐介・瀬尾育生等々の著書を楽しみたい、ワクワク!

安藤氏のその他の「ないものねだり」は昭和17年までという松本書の自己限定から外れている点も含めて、今後の松本氏の視野に入っているものもあるだろうし、氏の問題意識から外れていれば安藤氏が自分でやればいいことだろう。