安吾研究会の感想  「吹雪物語」

19日は早大安吾研、作品では特に「吹雪物語」の発表があるというので、この際なんとか読み通そうと我ながらガンバッタ。
小林秀雄本居宣長」同様で、これまで何度もチャレンジしながらも50ページほどで挫折を繰り返してきたシロモノだった。
小林の方は隠居仕事に思えてこちらの興味に重ならないツマラナサ、安吾の方は読む進めば進むほど作品の質が低下するばかりで読むに耐えない。
小林の方は最近自分が隠居したせいでもないが強い関心を抱いているけれど、安吾の方はとても木戸銭を取って読ませるレベルのものではない、シロウト並みの習作に止まっている。
何よりも文体・文章がヒドクなるばかりで読みにくいこと甚だしい、これが「風博士」の作者の書いた作家のものとは思えない。
自己閉塞した文章のせいか、登場人物が全然差異化されずに語られるから(とても「描く」とか「描写」というレベルには達してない)パターンが繰り返されるだけで、新味のある展開が無いから全然面白くない。
男は男で名前や年齢こそ違え皆同じように観念的に閉塞した人物になってしまい、女も女で似たような存在に見えてしまい挙句は男同然に「退屈」を口にするのだから、男女を超えて金太郎アメ的に類似してしまう。
それでも落とし前だけはつけるのかと期待したのに、「彼等のその後の行路に就いて、作者は何ごとも知っていない。」(八)とヌケヌケ言って逃れるのだからフザケルな! と言いたくなる。
作品を読み通すので精一杯だったので作品論はシュンテン(故・花田俊典)のを読んだことがあるだけだけれど、シュンテンが分かり易く読めるように説いてくれている一方で「失敗作」とする論者がいるのも当然だろう。
討論では以上の不満を踏まえながら「失敗作」というより長篇小説の「習作」として評価しておくのが安吾のためでもあると述べたのだけれど、「失敗作」の名にも値しない「試み」で終ったものだというのが素直な印象だ。
出版社に前借りしたために、心ならずも出版せざるをえなかったという事情でもあるのかと邪推してみたけれど、「安吾自身はそれなりに自信を持っていた」という傍証も挙げられたものの信じがたい気がする。
やがては多くの名作を書くことになる安吾が、こんなヒドイ小説に「自信」を持つようなオバカとも思えないし、前衛的な方法意識があったという発言にも同意し難かった。
信頼する専門家である大原祐治さんが、「吹雪物語」に突然現れる「私」を横光の第四人称だと捉えている論を紹介してくれた意見もあったので、半信半疑ながらその論文と対決するのが楽しみ。
安吾研究に打ち込むと宣言しながら裏切り続けている身なので、「吹雪物語」に限らず安吾の一部しか読めていない。
それでもズウズウしく予断的拙考を開陳しておけば、「風博士」や「木枯の酒倉から」のようなファルス(アレゴリー)しか書けなかった安吾が、現実世界を描写したリアリズム小説を試みたのが「吹雪物語」であり、結果が出なかったので諦めつつ「紫大納言」のようなアレゴリーに戻ったり、歴史小説などの別ジャンルを試行したのではなかろうか?
現実世界をミメーシス(模写)することが不得意なので、他方面に自分の世界を切り開いたというのが現時点での安吾像である。

それほど難しい問題を孕んだ「吹雪物語」を留学生であるデウィさんが読み通すだけでも大変だろうのに、作品世界をキチンと理解した上で議論に参加し得ていたのには驚くばかり。
ただ発表要旨にあった「吹雪物語」の満州イメージが「男性身体化」を指すという意見には賛同できないもので、それなら檀一雄「夕日と拳銃」こそが表題からして「男性身体化」と読むのに相応しかろうと思った。

福岡弘彬さんの発表は頭の良い人らしく多岐にわたる刺激的だったけれど、「堕落論」を読み返す余裕のなかった身には難しすぎてよく理解できなかったので、「堕落論」を再読してから改めてコメントしたい。
浅子逸男さんの発言はいつも広がりも重みもある傾聴に値するものだと感じているけれど、今回の発表はハチャメチャに面白く貴重な資料と推論を紹介・展開してくれたので、とっても楽しめた。
安吾の裾野は広い、参加しなかった人がカワイソーだと言っても大仰ではない。