『現代文学史研究』  安吾  高山京子

この「読む」欄には書いておきたい・書かねばならないことが沢山あり過ぎて書ききれないまま溜まっていくばかり。
その1つがだいぶ前にも紹介した『現代文学史研究』第二三集に載っていた、高山京子さんの安吾についての文章だけど、書いてないよネ?
文章と記したのは全然「論」になっていないからだけれど、これは連載の3回目で実は初めて読んでビックリしたものだ。
念のために第1回から遡って読んだけれど、時間の無駄にしかならない純然たる「感想文」でしかない。
これでは機関誌・同人に対して失礼で迷惑だろうと思っていたら、機関誌とは別に出している「通信」にも同じような諸氏の懸念が記されていてヤッパリと思った。
林芙美子で一定程度の評価を受けた高山さんが、なぜ「論」にもならない薄っぺらな安吾観を書きたがるのか全く不明ながら、せいぜい日記に書いて済ますべきもので発表して読者の貴重な時間を無駄にすべきではない(無駄を強いられたので敢えて言う)。
機関誌や同人に対してだけではなく、自分自身に対しても失礼で不利になるだけだ。
書くならキチンとテクスト(作品本文)と対峙する姿勢で分析して、気持と能力を総動員して論文に仕上げるべきだ。
幸い優秀な安吾論者がたくさんいるのだから、先行研究をジックリ消化した上で自説を相対化しつつ磨き上げるべきだと思う。

* 安吾の「吹雪物語」があまりにもツマラナクて読みあぐねているために、高山さんにツラく当っているわけではありません。
 安吾を論じるのは並大抵の努力では果たせない! ということを伝えたいからだ。それにしてもヒドイ作品だ!