磯田通史氏に対する異議  光秀と秀吉  アーティストとアルチザン  政治家と政治屋

全てのテレビ番組の中でイチオシは磯田通史氏が企画・MCをしている「英雄たちの選択」(時々「昭和の選択」になる)だということは、何度か記してきた。
木曜の朝晩8時からBSプレミアムで放映していて、朝の方は再放送だけど明日は夜の部が無くて午前の部は再々放送の「石橋湛山」でおススメ。
この良心のジャーナリストが、戦争中に植民地の放棄を訴えたというのを知った時には強い感動を覚えたものだ、見るべし!

ともあれ、ここで書き止めておきたいのは別にある。
前回だったか、明智光秀を取り上げた際に、秀吉とは正反対だった光秀は正攻法ばかりで、騙し(だまし)のテクニックで味方を増やした秀吉に敗れたのも当然というもの。
そうした光秀を磯田さんは、光秀が「職人」だったので正攻法しかできなかったから負けたのであり、「天下」が視野になかったのだと説いていた。
言いたいことは分かるけど、磯田さんは「職人」(アルチザン)ではなく「芸術家」(アーティスト)だと言うべきだった。
光秀はアーティストだったからこそ、己の作戦とその実践に酔ったのだと思う。
「職人」と言うべきなのは秀吉がらみなら加藤清正や福嶋忠則などであり、家康がらみなら井伊家を始めとするその忠臣たちがそれに当るだろう。
秀吉の参謀だった黒田官兵衛は職人というより、「天下」取りのヴィジョンを持ち続けていた点で信長同様の「政治家」だと言えると思う。
もちろん光秀に勝った秀吉がアーティストというわけでは全然なく、秀吉は目配りの利く「人ったらし」の「政治屋」にすぎなかった。
政治屋」でしかないというのは、信長のようなヴィジョンに富んだのを「政治家」と位置付けた時の、秀吉の位置だということ。
信長が描いた「天下」が光秀によって挫折させられたドサクサに紛れ、たまたま手にしてしまっただけの「百姓」(平民)だったからその後はチョンボの連続。
関白の座を譲ったはずの甥の秀次とその家族や家臣たち30数人を殺して曝(さら)してみたり、最大の悪事たる朝鮮出兵をやったお蔭で部下の対立(三成対清正等)を生んで豊臣家を自滅させたバカ猿でしかない。
持ち慣れない「天下」を持ってしまったために、長期的なヴィジョンが無いまま簡単に家康に横取りされたのも当然だった次第(家康は大嫌いだけど)。

日本には「政治家」の名に値する人は極端に少ない反面、スキャンダルで騒がれる「政治屋」が溢れるほどいることはくり返し記してきた。
両者の差異はともかくも、アーティストとアルチザンとの差異は覚えておいて、文学研究の論を作り上げる時に利用してもらいたいと思っている。
授業では時々この差異を具体例で説明してきたけれど、今すぐにその例が思い浮かばないナ、加速度的な加齢のせいかな?