【『太宰・安吾に檀・三島』より】「何やらゆかし、安吾と鷗外ーー「白痴」・「二流の人」など」

 

 また『シドクⅡ』のアップを忘れていたネ、そんなに頻繁にやることじゃないのは当然ながら、頭から消えていたヨ。思い出したのでアップしたいのだけど、これまでアップしていない論文が定かではなくなっているネ。鷗外のことを記した記憶がないので、これにしよう。

 前回の論文で強調したように、志賀直哉太宰治も違うようで〈同一性の連鎖〉という点では、日本文学特有の枠内に収まっている。この〈連鎖〉を断ち切っているのが坂口安吾だ、というのが本書のキモだということは内田道雄先生が見抜いてくれたとおりだ。それではこうした安吾の特性につながる文学者は? と自問した時に想起されたのが鷗外だ。「興津彌五右衛門の遺書」・「阿部一族」の初出テクストを初刊本では完全に改稿してしまい、せっかくの感動を無化してしまうので、裏切られた思いを抱いたものだ。

 整序化されたテクストを意識的に崩してしまう鷗外が、意識せぬまま整序化できないテクストを生み出してしまいがちな安吾と、自分の中でつながったのでそれを追究してみようと思いながら果たせぬままでいる。鷗外テクスト(特に現代小説)のツマラナサ、長篇「灰燼」の挫折の原因を検討するつもりだったのだけどネ。今でもその気はあるのだけど、それ以上に興味のある読み物に追われているので、いつになるやらだネ。何かヒントがあったら教えてネ!

 

  何やらゆかし、安吾と鷗外――「白痴」・「二流の人」など

 

 柄谷行人の〈作家〉

 

坂口安吾森鷗外、もう一人柄谷行人と付け加えてみたい気がしている。なにやら興味深い結論が導き出されてくる予感で心ときめくが、そこまで深入りする余裕はない。日本の批評文学史の主線で言えば、小林秀雄が切り拓いたものを吉本隆明江藤淳の二人が分化しつつ継承・進展させ、それを新たに統合しながら独りで受け継いで飛躍させたのが柄谷だというのが私の理解である。蓮實重彦を位置づけるとすれば、小林秀雄から出た支線としての中村光夫篠田一士というつながりを考えれば、蓮實はこのラインで押えることができよう。蓮實は柄谷同様に批評史上画期的な展開をもたらしているが、あくまでも傍系と言わざるをえない。それは蓮實重彦の業績が柄谷行人に及ばないというのではなく、日本文学史の流れの主筋が小林から柄谷へというラインで形作られているということである。私(達)は柄谷の評文から彼の〈肉声〉を聞き取ることができるが、蓮實重彦の文章から聞こえてくるのは機械による合成された音声であっても、決して〈肉声〉ではない。もちろん、それが蓮実の批評の欠点だというわけでもない。

《作品が作家をつくるとヴァレリーはいったが、私はやはり作家というものを切りはなして作品を論ずる気にはなれない。》とは、柄谷が鷗外の歴史小説を論じた「歴史と自然」(『意味という病』一九七五年)の冒頭の一文である。ヴァレリーのフレーズは小林秀雄がくり返し引用したものだが(1)、小林がこだわった「作家の顔(2)」は紛れもなく柄谷に受け継がれている。蓮實重彦が破砕したのがこの「作家の顔」であるのは言うまでもない。蓮實はフランス直輸入の文学観に全面的に依拠しつつ、日本文学の主線をまさに根底から批判した存在感ある傍系なのである。

 

 いきなり脱線してしまったが、戦後批評史を語る場ではなかった。私にとって、安吾と鷗外という意外な組み合わせを媒介したものが、実は柄谷行人だということから始めたかっただけである。安吾に対し人並み程度の興味しかなかった頃、柄谷の気合いの入った安吾論に接して不思議な気がしたのを忘れない。取り合わせがいかにも奇妙だったのである。柄谷の書くものは例外なく面白く、安吾論も十分刺激的ではあったが、なぜ安吾なのかは不透明なまま問いとして残っていた。暫くしてナルホドと思えたのは、柄谷が自身と安吾との「類似性」を語った次の発言によってである(インタビュアは関井光男氏)。

 

安吾は二十一歳の時に鬱病になってむちゃくちゃに語学をして治ったというのですが、僕もだいたいそういう経験があったのです。(略)半年位は聞くのも、書くのも、読むのも全部英語でやるというような勉強をしたんです。(略)何も考えられないから語学をやったのです。しかし、いつの間にか二、三年ごしの鬱状態が治っていた。            (『解釈と鑑賞』一九九三・二)

 

ほんの一部の引用に止まるが、実に興味深い柄谷の〈肉声〉を聞くことができる。論じる対象との〈ヘソの緒〉つながりにこだわる一昔前の批評・研究の流れを強調しようとするのではないながら、なぜ安吾なのかが納得できたのである。

 もう一つ「柄谷がなぜ?」と思わせた論がある。先述の「歴史と自然」がそれであるが、発表当時だれも柄谷が鷗外を論じることなど想像できなかったはずである。鷗外論を漁っていた学生の頃、群を抜いて面白かったのは山崎正和『鷗外 闘う家長』(河出書房新社、一九七二年)とともに柄谷のこの論であった。まさに核心を突いた論考で、感服という言葉が当てはまる記憶として明瞭に残っている。ともあれ何ゆえ柄谷が鷗外を、それも歴史小説を取り上げたのかは未だに謎のままであるが、柄谷の論考はやはり〈肉声〉が響いていた初期のものが批評家らしくて良いと思っている。その後は知識依存に傾いて代替可能な存在になっていくようで、インパクトが弱まる印象なのが惜しまれる。ブッキッシュな批評・研究なら、掃いて捨てたいほど溢れているから。

 

鷗外の「精神の形態」

 

最近、志賀直哉と対照させながら太宰文学の特質を考える機会を得たのだが、(3)志賀や太宰の文学における〈主人公・他の人物・語り手・作者・作家〉それぞれ相互の〈同一化〉志向の強さに、日本的心性を改めて痛感したものである。〈同一化〉の連鎖を検討する際に、漱石の行程をたどってみたのであるが、「明暗」の苦闘にこの〈同一化〉の連鎖を断ち切ろうとした痕跡を見出した思いだった。主役的な津田が受ける相対化のされ方は、それ以前の日本文学では考えられないものである。そこには確かに互いに〈同一化〉しえない〈他者〉の存在感があり、主人公以外の〈他者〉の声に満ちた多元的な世界が構築されている。志賀直哉に典型される日本近代文学一般とは異なり、中心人物に一元化されていない在り様は無類のものであり、今さらながらの驚きであった。

「明暗」の多元的世界に関連して想起されたのが、柄谷の鷗外論であった。屈辱に堪えがたい小倉左遷の当日、新橋駅で見送ってくれたのが乃木希典であり、その旧友の殉死に深く動かされた鷗外が一気呵成に「興津弥五右衛門の遺書」(大1)を書きあげたのは周知であろう。柄谷もここから始めている。

 

疑いなく鷗外は初稿を、乃木殉死に関する解釈として書いたのである。したがって、初稿には明確な主題があり、またパセティックな緊張感がある。

ところが、改稿ではそういう緊迫感はなく、雪明りの下でひとり切腹するという低く抑えられてはいるがその分だけ輝かしい情念の形態が、晴れがましく栄誉ある死によってすっかり帳消しにされている。もはや乃木将軍を類推させる余地はなく、作品の主題もあいまいになってしまっている。(Ⅰ)

 

改稿には「纏まり」がなく、事件が一つの中心(主題)に収斂されるかわりに拡散している。それは読み手の感情移入を拒むし、乃木殉死の解釈を読もうとすることも許さない。たとえば、改稿において鷗外は、弥五右衛門の子孫の消息にまで言及している。先祖に関する言及も初稿に比べて格段にくわしい。                                     (Ⅱ)

 

鷗外を読んでいて誰しもが感じるであろう異和感が、きわめて分かりやすい言葉で鮮やかに捉えられている。柄谷の見事な論評に異を唱える気はないながら、私は柄谷も言うところの、鷗外特有の「精神の働き」・「精神の形態(4)」という考え方から脱することができない。あるいは柄谷が論から除外している、「鷗外という個人の秘密」に囚われたままでいると自覚しながらの偏見である。鷗外には強力なバランス感覚が具わっていて、情念に駆られて一方に傾いてもすぐに傾きを元に戻す「精神の働き」が起動し、常に平衡を保とうとしているというのが学生時代から変わらぬ鷗外観である。

 

「柁を取る」

 

そうした鷗外の「精神の形態」を表象するのが、しばしば作品に現れる「柁を取る」という言葉である(5)。

 

「先づお国柄だから、当局が巧みに柁を取つて行けば、殖えずに済むだらう。併し遣りやうでは、激成するといふやうな傾きを生じ兼ねない。その候補者はどんな人間かと云ふと、あらゆる不遇な人間だね。先年壮士になつたやうな人間だね。」                  (「食堂」明43)

 

「食堂」はいわゆる「あそび」の木村物で、大逆事件を視野に入れつつ、鷗外の分身である木村に無政府主義についての考えを語らせたものである。冤罪によって幸徳秋水達を死刑に処した権力側の行き過ぎに危惧を抱いた鷗外(木村)ではあるものの、民権運動の壮士や革命運動の闘士達が放つ情念の過剰さは、権力側の暴走同様に危険極まる苦々しいものであった。しかし鷗外にとっては、全てがせいぜい「柁」の取り方しだいで何とか善導できる、と楽観して語れる程度の認識に止まっている。むろん鷗外の思考が時代的な制約の枠内にあることと、生来の「家長」としての保守的な傾向を考慮に入れなければなるまいが。

ともあれ鷗外の場合は、そもそも文壇デビュー作「舞姫」(明23)における、エリスに対する豊太郎の煮え切らない姿勢から始まり、文壇復帰第一作の「半日」(明42)における母と妻との間で「柁を取る」ことに汲々としている高山博士の在り方を想起すると、「興津弥五右衛門の遺書」初稿のパセティックな調子を改稿によって脱臼させ、テクストの「纏まり」を失くしてしまう豹変ぶりも理解しやすい。自失したままエリスに深入りしていく豊太郎を押し止め、国家に回帰させていく友人・相沢謙吉を登場させた「舞姫」の手口がくり返されているわけである。そこには処世術にも堕しかねない、鷗外の絶妙な〈平衡感覚〉という「個人の秘密」が指摘できると考える。例えば柄谷が言及している「護寺院原の敵討」(大2)にしても、仇討ちの貫徹を目差す弟の九郎右衛門(や娘のりえと従者の文吉)に対して、合理性の観点から疑義を抱いて袂を分かつ長男の宇平にも焦点が当てられ、九郎右衛門達を相対化するところにもこの〈平衡感覚〉が見て取れる。二人のやりとりの会話だけを引用してみよう。

 

「をぢさん。わたし共は随分歩くには歩きました。併し歩いたつてこれは見付らないのが当前かも知れません。ぢつとして網を張つてゐたつて、来て掛かりつこはありませんが、歩いてゐたつて、打つ附からないかも知れません。それを先へ先へと考へて見ますと、どうも妙です。わたしは変な心持がしてなりません。」

「さうか。さう思ふのか。よく聴けよ。それは武運が拙くて、神にも仏にも見放されたら、お前の云ふ通だらう。人間はさうしたものではない。腰が起てば歩いて捜す。病気になれば寝てゐて待つ。神仏の加護があれば敵にはいつか逢はれる。歩いて行き合ふかも知れぬが、寝てゐる所へ来るかも知れぬ。」

「をぢさん。あなたは神や仏が本当に助けてくれるものだと思つてゐますか。」

「うん。それは分からん。分からんのが神仏だ。」

「さうでせう。神仏は分からぬものです。実はわたしはもう今までしたやうな事を罷めて、わたしの勝手にしようかと思つてゐます。」

 

一見不合理とも思える九郎右衛門達の敵討行を描く一方で、合理的な宇平の疑念を対置して偏らないのが鷗外テクストの在り方である。鷗外が依拠した資料「山本復讐記(6)」では、宇平は九郎右衛門に対して直接の反論はせず、翌日叔父には黙って単独行動に走る。仲間(ちゆうげん)の文吉に託された叔父への伝言として、三人一緒に捜すよりは別行動で捜すという理屈は付せられている。資料を改竄してまでも仇討を一元的に描こうとはしない鷗外の露骨な手付きは、「興津弥五右衛門の遺書」の改稿を想起させるところである。言うところは鷗外のテクストが「中心(主題)」を欠いている原因は、作家論的に回収しやすいということであり、「個人の秘密」には還元しがたい安吾の場合とは根本的に異なると思われる。結論が先になってしまったが、鷗外テクストが「中心」を欠いているとすれば、それは自覚の度合は異なるにしろ意識的になされた結果なのであり、安吾の場合は意識の統御を脱してテクストが勝手に「拡散」して行くのであって、安吾の解りにくさはそこに由来するということである。

 

「つかまえ切れない」安吾テクスト

 

さて先に引用した柄谷の論考は、文脈を無視してその言葉だけを抽出すれば、本書収録の「安吾作品の構造」の趣旨に言い換えられる。比較対照した太宰の「十二月八日」(昭17)にはコンテクストとして厭戦反戦という「明確な主題」を読み取ることが可能である。一方の「真珠」(昭17)には特殊潜航艇で真珠湾の海底に散った「あなた方」がもたらした「私」の感動が語られつつも、土器の趣味に傾くガランドウの非戦的な言動も並列して語られる。「私」の感動が揺るぎない「中心」として位置しているわけではなく、ガランドウの存在によって作品の「主題」があいまいになってしまっている、というのが私解である。それが安吾の意図だとは読めない点も、〈語り手〉と〈作者〉の連鎖を断っていて太宰とは異なっている。「真珠」に限らず、安吾のテクストは〈作者〉の意図も「明確な主題」も読みにくいのが一般である。旧著『シドク 漱石から太宰まで』(洋々社、一九九六年)で「風博士」や「桜の森の満開の下」について私読を提示しえたと思った時はそれに気付かず、その後はむやみに「明確な主題」を求めて安吾テクストの森をさまよったものである。それにしても自分なりに読み切ったと思った「風博士」や「桜の森の満開の下」に関する論考の多さが、読みの多様性を生むという点で、安吾テクストの難解さを表している。未だに主要な作品しか読んでいないにもかかわらず、安吾テクストの不可解さを強調しすぎているように見えるであろうが、安吾の専門家達からもときおり悲鳴のような言葉が聞かれる。

 

今回のフォーラムには「捕まえろ! 飛翔する安吾を!」というサブタイトルがついていますが。本当に安吾はなかなかつかまえ切れない。     (『坂口安吾論集Ⅲ』ゆまに書房、二〇〇七年)

 

坂口安吾生誕百周年記念フォーラム」における司会者・加藤達彦氏の発言であるが、安吾は「つかまえ切れない」という認識は広く共有されているようでいささか安心した。

 

「白痴」をめぐる愚論と卓論

 

私の場合「つかまえ切れない」ので論が「書けない」安吾作品の中で、もっとも著名なのは「白痴」(昭21)である。いつ読んでも分かった気がしないながら、それなりの感銘を覚えて興味を惹かれるので読み返しはするものの、腑に落ちたためしがない。「白痴」は石川淳安吾のゐる風景」(昭31)のように「戦後最初の傑作」だと言い切るほどの評価はできないながら、庄司肇坂口安吾』(南北社、一九六八年)のようにテクストが読めないゆえに「失敗作」として斥けるのもあまりにオバカが過ぎる。いち早い同時代評として平野謙「小説月評」(昭21)が、作品に「溷濁」があるゆえに「傑作になりそこねた力作」と断じているのは素直な印象であろうし、さすがに的確な批評だと思われる。「溷濁」は先述した一元的な読みに集約しがたいということにつながるであろうし、「白痴」の不可解さが(時代背景の違いなどに由来するのではなく)テクスト自体に原因があることを明かしている。一元的といえば、「無頼文学の系譜」(『解釈と鑑賞』一九七〇・二)という特集号における千葉宣一氏の「白痴」論が、短いながら犀利で要を得ている。

 

作者自身が創作の全過程を通して、明確に自覚された一元的な主題を追究していたわけではない。従来の自然主義私小説におけるリアリズムの伝統的な小説観から、主題の解明を志向する限り、ついには、主題喪失の結論しかでてこない、小説の美学を異にした作品なのである。

 

千葉氏が言うとおり、安吾は「一元的な主題」を意識して書いたことは無かろうし、それ以上に「主題」という考え方そのものを自覚したことも無いということであろう。「伝統的な小説観」とは異なる「小説の美学」にまで論を進める千葉氏の視野の広さ・理解の深さは刺激に満ちており、先の拙稿(注3参照)で論及した主人公から作家までの〈同一化〉の連鎖という、日本的心性を断ち切った安吾像に重なるようでもあり心強い。

ともあれテクストを読まねば始まらない。

 

伊沢の振幅

 

その家には人間と豚と犬と鷄と家鴨が住んでゐたが、まつたく、住む建物も各々の食物も殆ど変つてゐやしない。物置のやうなひん曲つた建物があつて、階下には主人夫婦、天井裏に母と娘が間借りしてゐて、この娘は相手の分らぬ子供を孕んでゐる。(61)(7)

 

半世紀以上経った現在から見ても、強烈なインパクトを失っていない出だしである。人間が豚を始めとする動物達と差異化されていないので、人間という中心を失った場がいきなり提示される衝撃である。「ひん曲つた」のは目に見える建物だけではなく、視覚化されない倫理も歪曲しており、住んでいる娘が父親を特定できない子供を孕んでも不思議と感じさせない。この背徳的な娘の在り方は、肉体の歓びのみに浸る白痴の女に通じていて、後の白痴女の登場をスムースにしている。

 生きていく上での中心となるべき倫理が欠落したのは、戦争という極限状況のためかと伊沢ならずとも考えるところだが、家主の仕立屋は《このへんぢや、先からこんなものでしたねえ、と仕立屋は哲学者のやうな面持で静かに答へる》(63)のである。「哲学者のやうな面持ちで」かつ「静かに答へる」ように伊沢が受け止めるのは、この脱倫理化・非中心化された生の場になじめていないのは伊沢だけであり、他の住民には当たり前の日常になっていることを示している。伊沢は職場においてのみならず、生活の場においても周囲とは価値観・世界観を異にする異端の徒なのである。物語が展開しても伊沢のスタンスに変化が現れることはない。したがって後述のとおり、伊沢は二極間で大きく揺れ続けるだけで、自己決定することはない。

 

停車場の周囲の枕木の垣根にもたれて休んでゐるとき、今朝は果して空が晴れて、俺と俺の隣に並んだ豚の背中に太陽の光がそゝぐだらうか、と伊沢は考へてゐた。あまり今朝が寒むすぎるからであつた。(85)

 

 テクスト末尾で「豚」と呼ばれているのは白痴女であるが、伊沢の意識の中で一時的に「人間」だと錯覚された女が豚に戻っただけであり、人間が中心化されていない点では冒頭部に回帰した認識世界である。異なるのは、伊沢は当初生活の場では浮き上がった存在であったものの、白痴女との不思議な交流を通して形だけでも彼女を受け入れている点である。結末の場面は冒頭への回帰でもあるが、「寒むすぎる」といえば女が伊沢の許に飛び込んできた日の一夜にも重なっている。

  

それは驚くほど短い(同時にそれは無限に長い)一夜であつた。長い夜のまるで無限の続きだと思つてゐたのに、いつかしら夜が白み、夜明けの寒気が彼の全身を感覚のない石のやうにかたまらせてゐた。彼は女の枕元で、たゞ髪の毛をなでつゞけてゐたのであつた。

その日から別の生活がはじまつた。

けれどもそれは一つの家に女の肉体がふへたといふことの外には別でもなければ変つてすらもゐなかつた。それはまるで噓のやうな空々しさで、たしかに彼の身辺に、そして彼の精神に、新たな芽生えの唯一本の穂先すら見出すことができないのだ。その出来事の異常さをともかく理性的に納得してゐるといふだけで、生活自体に机の置き場所が変つたほどの変化も起きてはゐなかつた。(72・73)

 

「夜明けの寒気」の中で伊沢が癒しているのは「豚」ではなく「女」ではあるものの、ここではまだ女との隔たりは埋め尽くしがたいと自覚されていて、交流の可能性はハナから信じられていない。にもかかわらず女の髪をなで続けることによって伊沢自身も何らかの癒しを得ていたに違いない。引用箇所の直前に、女を慰撫しながら《伊沢はこの女と抱き合ひ、暗い曠野を飄々と風に吹かれて歩いてゐる無限の旅路を目に描いた。》(72)とあるように、女に対する伊沢の思い入れが始まっているからである。戦争という抑圧的な状況下においても、自ら夢見ることによる救いは求められている。《しかも尚、わきでるやうなこの想念と愛情の素直さが全然虚妄のものにしか感じられないのはなぜだらう。》(同)と続けられるように、伊沢の意識の揺れ幅は極端に大きい。そうした伊沢の意識の在り方は、女との一夜が「驚くほど短い」と感じられたとあるところに端的に表現されている。「驚くほど短い」が同時に「無限に長い」という矛盾の共存は、生きていく上での中心を失った伊沢という人間を的確に表している。

 「★」記号で区切られた後の引用文でも、「別の生活」の始まりが語られながらもそれは「噓のやうな空々し」い手応えしかもたらさない。「別の」ではあっても「新しい」生活ではないというところに、伊沢らしさを読みとるべきであろう。家出した白痴女との秘められた同棲生活という「出来事の異常さ」は頭で理解していながらも、生活自体にはほとんど「変化」はきたしていない。引用の直後に《しかも彼は一足でると、もう白痴の女のことなどは忘れてをり、》(73)と付されているように、女の存在が伊沢の生活の中心に位置付けられるわけではない。だから「★」の直前の光景が作品末尾でくり返されてはいても、閉じられた後のテクストに書かれていない所で、新たな展開が想定されるわけではない。

  

〈同一化〉の拒絶

 

女のねむりこけてゐるうちに、女を置いて立去りたいとも思つたが、それすらも面倒くさくなつてゐた。人が物を捨てるには、たとへば紙屑を捨てるにも、捨てるだけの張合ひと潔癖ぐらゐはあるだらう。この女を捨てる張合ひも潔癖も失はれてゐるだけだ。微塵の愛情もなかつたし、未練もなかつたが、捨てるだけの張合ひもなかつた。生きるための、明日の希望がないからだつた。明日の日に、たとへば女の姿を捨てゝみても、どこかの場所に何か希望があるのだらうか。何をたよりに生きるのだらう。(84)

 

歩きだしたその先に一新された「別の生活」が待っているわけでもない。伊沢の基本的な在り方は、「虚妄」に囚われたアパシー的状況であるが、女との最初の一夜に思い描かれた「無限の旅路」が完全に払拭されたわけではなく、だからこそ「豚」でもあろうが捨てきれずに、起きるのを待って女との「旅路」を考えるのである。とはいえ、生きていく上での支えとなるべき「希望」も「たより」も期待しえない人間には、「変化」も「甦生」もありえない。

 

「死ぬ時は、かうして、二人一緒だよ。怖れるな。そして、俺から離れるな。火も爆弾も忘れて、おい、俺達二人の一生の道はな、いつもこの道なのだよ。この道をたゞまつすぐ見つめて、俺の肩にすがりついてくるがいゝ。分つたね」

女はごくんと頷いた。

その頷きは稚拙であつたが、伊沢は感動のために狂ひさうになるのであつた。あゝ、長い長い幾たびかの恐怖の時間、夜昼の爆撃の下に於て、女が表した始めての意志であり、たゞ一度の答へであつた。そのいぢらしさに伊沢は逆上しさうであつた。今こそ人間を抱きしめてをり、その抱きしめてゐる人間に、無限の誇りをもつのであつた。二人は猛火をくゞつて走つた。

(略)女は時々自発的に身体を水に浸してゐる。犬ですらさうせざるを得ぬ状況だつたが、一人の新たな可愛い女が生れでた新鮮さに伊沢は目をみひらいて水を浴びる女の姿態をむさぼり見た。

                           (81・82)

 

議論を誘発する問題の場面である。ここだけを取り出すと、兵藤正之助『坂口安吾論』(冬樹社、一九七二年)も言うように一篇の「クライマックス」であるかのような印象であろうが、兵藤氏が「坂口の最も書きたかったもの」と続けるほど安吾テクストは単純ではない。兵藤氏も伊沢の「独り合点」を言い、「伊沢と作者安吾の心のへだたり」という言い方で主人公と作者との〈同一化〉を避ける周到さを見せている。白痴像を一義的に限定しようとして、伊沢によって美化された白痴女を「理想的な女人像、女房の典型」(庄司・前掲書)と言ったらオバカの上塗りになるだけである。テクストも右の引用のすぐ後には《その底に小さな安堵があるのだが、それは変にケチくさい、馬鹿げたものに思はれた。何もかも馬鹿々々しくなつてゐた。》という感慨が語られている。

白痴的在り方を無垢のイメージにダブらせて美化するロマン主義的発想は、独歩の「春の鳥」のものであっても「白痴」テクストにそれは無い。そもそも「伊沢と作者安吾の心のへだたり」を言う兵藤論のように〈主人公〉と〈作者〉(や〈語り手〉)との隔たりを云々する以前に、〈主人公〉と白痴女との〈同一化〉を問わねばならない。さりとて庄司論のように白痴女を伊沢の「理想的な女人像」としたのでは、安吾テクストの読み方自体からして自覚が欠けている。戦火で焼け出されるまでは、伊沢と女とはズレたままであり、例えば《伊沢の愛情を目算に入れてゐた》(69)と思われる女に対し伊沢は正面から向き合うことをしていない。敗戦色濃厚な閉塞状況にあって、「絶望的な感情の喪失」をきたしているからではあるものの、一方では完全に戦時体制に組み込まれることなく、「芸術」に対する執着は伊沢に一貫している。しかし白痴女に対しては既に見てきたとおり、一時的な思い込みによる美化と、覚めた後の否定との二極に別れている。そうした伊沢の両極的在り方を理想化のみに一元化したら、誤読から逃れることができない。

「白痴」は徹頭徹尾伊沢に〈内的焦点化〉(8)されているので他の人物や物事に対する見方が伊沢の視野に限られていて、伊沢その人は〈他者〉の眼によって相対化されていない。時々刻々揺れ動く伊沢の「独り合点」に付き合ってそれを集約しようとすること自体に無理がある。平野謙の言う「溷濁」は、「溷濁」としてそのままを全体として捉えようとする姿勢が肝要であろう。別言すれば、〈同一化〉を基軸とする安吾以前の日本文学とは異質な「小説の美学」を用意して臨まねばなるまい。〈主人公〉一人の物語ではない、それも一方向的に回収することができない多元的な在り様を捉えねばならない困難さが、安吾の「つかまえ切れない」印象を与える根源と思われる。

 

安吾の書法

 

続いて鷗外の歴史小説との差異を検討するためにも、『二流の人』(昭22)を論じるつもりであったが、拙稿の「イノチガケ」論(『解釈と鑑賞』二〇〇六・一一)を読み返したら根幹のところでは大差のない論になりかねない。安吾のテクスト自体がその特性として同じパターンをくり返しがちなのでやむをえないところではあるものの、「二流の人」独自の「溷濁」の仕方を明かさねばなるまい。

 

安吾の場合は作者がテクストを支配することができず(あるいは支配することを放棄して?)、作者(語り手と言っても可)自身がテクストの落とし所も「主題」も把握していないものと考えられる。そのストーリー展開は(作者の中でも、テクストの在り方としても)単線的な形では整序化されておらず、分裂し多元化しつつ拡散した印象を与えることになる。(略)

くり返し指摘されてきた前篇と後篇の分裂は一目瞭然であるが、キリシタンの「情熱」に対して必ずしも肯定的な記述が続くわけではない。彼等の「誠実謙遜」「清貧童貞」ぶりを強調しながらも、例えばキリシタン達を「精神病者」として見る観点を隠さない。

                             (「『イノチガケ』小論 安吾の書法」)

 

右の「イノチガケ」を例にした「安吾の書法」が、そのまま「二流の人」に通用してしまうという予断が浮かぶものの、可能なかぎり「二流の人」テクストの細部を立ち上げながら「整序化」を試みたい。「二流の人」は安吾初の歴史小説であり、原題は「黒田如水」(昭19)で現行の「第一話 小田原にて」の「二」までが初出テクストに当たる。この「黒田如水」に限定して読むかぎり、《自己を突き放すところに自己の創造と発見を賭るところの人》(二)がすなわち「天才」であり、秀吉と家康がこれに該当すると読める。如水はこの二人から常に差異化されて語られるので、「天才」たりえぬ「二流の人」と目される。テクストのもう一つのキー・ワードは「賭博(者)」であり、家康も三方ケ原では「理知の計算をはなれ」て「賭博」をした結果、「生きてゐるのが不思議」(二)なくらいの大敗北を喫しながらも「自己の創造と発見」に至ったとされる。

 

彼も亦一個の英雄であり、すぐれた策師であるけれども、不相応な野望ほど偉くないのが悲劇であり、それゆゑ滑稽笑止である。秀吉は如水の肚を怖れたが、同時に彼を軽蔑した。     (一)

 

「すぐれた策師」ではあるものの秀吉のような「天才」よりは一段劣る存在、おそらくそうした位置付けから「二流の人」たる如水の主役化が図られたものと考えられる。秀吉の「賭博」は周知の山崎の合戦で「死を賭し」(同)て天下を取ったわけであるが、如水は若き日に信長に全てを賭けたために旧主から肉体的な障害を負わされ、《悲しい哉、この賭博美を再び敢て行ふことが無かつたのだ。こゝに彼の悲劇があつた。》(一)とネガティヴに語られてしまう。《生命をはる時ほど美しい人の姿はない》(一)にもかかわらず、如水は「イノチガケ」を忘れたからである。

 

「二流の人」とは誰か?

 

あえて表題にこだわれば、「二流の人」は如水に止まらずに「戦争狂」や「戦場デカダン派」の名の下に上杉謙信・直江山城(兼続)・真田幸村などもカテゴリーに取り込みながら、「天才」と差異化されていく。

 

この男(直江山城――注)を育て仕込んでくれた上杉謙信といふ半坊主の悟りすました戦争狂がそれに似た思想と性癖をもつてゐた。謙信も大いに大義名分だとか勤王などと言ひふらすが全然噓で、実際はたゞ「気持良く」戦ふことが好きなだけだ。(略)直江山城はその一番の高弟で、先生よりも理知的な近代化された都会的感覚をもつてゐた。それだけに戦争をたのしむ度合ひは一さう高くなつてゐる。真田幸村といふ田舎小僧があつたが、彼は又、直江山城の高弟であつた。少年期から青年期へかけ上杉家へ人質にとられ、山城の思想を存分に仕込まれて育つた。いづれも正義を酒の肴の骨の髄まで戦争狂、当時最も純潔な戦争デカダン派であつたのである。彼等には私慾はない。(略)

直江山城は会津バンダイ山湖水を渡る吹雪の下に、如水は九州の南国の青空の下に、二人の戦争狂はそれ〴〵田舎の逞しい空気を吸ひあげて野性満々天下の動乱を待ち構へてゐたが、当の動乱の本人の三成と家康は、当の本人である為に、岡目八目の戦争狂どもの達見ほど、彼等自らの前途の星のめぐり合はせを的確に見定め嗅ぎ当てる手筋を失つてゐた。        (「第三話 関ヶ原」一)

 

さすがの謙信も〈語り手〉や〈作者・作家〉からすれば、単なる「バクチ打ち」であって「賭博者」としては評価できない。その系譜に属する山城も幸村も同様であり、師弟関係ではないながら「戦争狂」として如水もこれに連なる。対比項として家康と三成がくくられているので、如水も山城達も「天才」には及ばぬ「二流の人」に止まると言えようが、三成も「天才」の評価を得ているのであろうか?

三成に関する言及は少なくないが、「第二話 朝鮮で」までのほとんどはストーリー展開に必要上のものに限られた。場面が関ヶ原に移るからとはいえ、第三話に入るとにわかに三成が浮上して、それもポジティヴに語られるので戸惑わざるをえない。

 

三成は「天才」か?

 

まるで家康の訪れを死の使者の訪れのやうに、利家は死んだ。その枕頭に日夜看病に努めてゐた三成の落胆。だが、三成も胆略すぐれた男であつた。彼は利家あるゆゑにそれに頼つて独自の道を失つてすらゐたのであるが、それ故むしろ利家の死に彼自らの本領をとりもどしてゐた。天才達は常に失ふところから出発する。彼等が彼自体の本領を発揮し独自の光彩を放つのはその最悪の事態に処した時であり、そのとき自我の発見が奇蹟の如くに行はれる。幸ひにして三成は落胆にふける時間もなかつた。                                     (同前)

 

三成は裸一貫ともかく命を拾つて佐和山へ引退したが、彼は始めて独自の自我をとりもどしてゐた。彼は敵を怖れる必要がなくなり、そして、彼も亦己れのイノチを賭けてゐた。

直江山城といふ楽天的な戦争マニヤが時節到来を嗅ぎ当てたのはこの時であつた。  (同前)

 

最悪の状況下で「自己の発見」をし、「イノチを賭け」る用意のある者として、三成も確かに「天才達」に組み込まれているのが明瞭である。三成が「楽天的な戦争マニア」とは明らかに異なるのは、豊臣家のために天下分け目の戦いに勝たねばならず、そのための足固めをしなければならない点である。一方の「家康とても同じこと、のるかそるか」の大賭博に打って出なければならないのが、二人の「天才」に課された条件であった。

 

三成は常に家康の大きな性格を感じてゐた。その性格は戦争といふ曲芸師の第一等の条件であつた。自ら人望が集まるといふ通俗的な型で、自ら利用せられることによつて利用してゐる長者の風格であつた。三成はそれに対比する自分自身の影に、孤独、自我、そして自立を読みだしてゐる、孤独と自我と自立には常に純粋といふオマジナヒのやうな矜持がつきまとふこと、陋巷に孤高を持す芸術家と異なるところはなかつたが、三成は己れを屈して衆に媚びる必要もあつたので、彼は家康の通俗の型に敗北を感じてゐた。                               (同前)

  

「孤独・自我・自立」そして「純粋」とくれば、確かに「孤高を持す芸術家」のイメージであり、三成に当てはまっても家康とは真逆である。作品の枠を越えて言えば「白痴」の伊沢が抱く芸術家像に重なり、〈作家〉の好みが三成を再発見したというのが実情であろう。「芸術」は安吾テクストにおいて、犯しがたい聖域である。

好みといえば、家康の《通俗の型を決定的に軽蔑》(同)したのは直江山城守である。山城は《楽天的なエゴイストで、時代や流行から超然とした耽溺派であつた》ので、《家康を嫌つてゐたが、それはちよつと嫌ひなだけで、実は好きなのかも知れなかつた》(同)とされている。〈語り手〉(や〈作者・作家〉)も山城のことが好みと見え、「二」に入ると如水を排除しながら三成・家康と同列にくくり出す。「芸術」対「通俗」という対照は、新たな対比へとズラされることになる。

 

如水の位置付け

 

如水雌伏二十数年、乗りだす時がきた。如水自らかく観じ、青春の如く亢奮すらもしたのではあつたが、時代は彼を残してとつくに通りすぎてゐることを悟らないのだ。

家康も三成も山城も彼等の真実の魂は孤立し、死の崖に立ち、そして彼等は各々の流義で大きなロマンの波の上を流れてゐたが、その心の崖、それは最悪絶対の孤独をみつめ命を賭けた断崖であつた。この涯は何物をも頼らず何物とも妥協しない詩人の魂であり、陋巷に窮死するまでひとり我唄を唄ふあの純粋な魂であつた。

如水には心の崖がすでになかつた。彼も昔は詩人であつた。(略)

彼は二十の若者の如き情熱亢奮をもつて我が時は来れりと乗りだしたが、彼の心に崖はなく、絶対の孤独をみつめてイノチを賭ける詩人の魂はなかつた。(略)彼は自ら評して常に己れを賭博師といふ。然り、彼は賭博師で、芸術家ではなかつたのだ。彼は見通しをたてゝ身体をはつたが、芸術家は賭の果に自我の閃光とその発見を賭けるものだ。           (「第三話 関ヶ原」二)

 

「絶対の孤独」をみつめて「イノチを賭け」るのが「詩人」だとくり返されるのであるから、「詩人」が「芸術家」に近似してくるものの、「孤独」も「芸術」も家康のイメージとははずれるので、語り手が混乱気味で収拾しきれていないようである。「芸術」の反意語としての「通俗」として家康を位置付けながら、「芸術家」の同意語としての「詩人」に家康をくくるのは明らかに矛盾である。如水は「芸術家」とも「通俗の型」とも語られなかったが、今や「詩人」ではなくなったということも確かである。若き日に信長に「命を賭け」たために旧主から痛めつけられた時は「詩人」であったが、それ以来の如水には「心の崖」が再生されることもなく、「昔日の殻」を負っているだけだとされる。要は如水が排除されている点であって、家康の「大きな性格」とも「通俗の型」とも無縁であり、また三成のような「絶対の孤独」や「純粋な魂」からも遠く隔たった如水は、差異化された果てに「賭博師」に貶められて終る。

第一話で三方ケ原の戦いにおける「賭博者」としての家康を語る際に、《突き放されたところに自己の発見と創造を賭けた》(二)ところが「天才の道」だとしていた。この第三話では「芸術家」は《賭けの果に自我の閃光とその発見を賭ける》と言い換えられているが、「天才」と「芸術家」とが近似しているように二つの言い方にも大差はない。確かに言葉の上では「賭博者」と「賭博師」とは違いがないながらも、「天才」のものである「自己の発見と創造」が欠落している分、「賭博師」の評価は落とされている。これでは謙信を評した「バクチ打ち」と同列になりかねないが、それほど如水が「天才」や「芸術家(詩人)」から差異化され排除されつつ、表題の「二流の人」の名を一人で担っていく運びとなっているということである。

 

こうしてテクストの最終部、「関ヶ原」の末二章は、「バクチ打ち」たる如水に中心化されて以下のように閉じられている。

 

如水は家康めにしてやられたわいとかねて覚悟の上のこと、バクチが外れたときは仕方がないさ、とうそぶいてゐる。応仁以降うちつゞいた天下のどさくさは終つた、俺のでる幕はすんだといふ如水の胸は淡泊にはれてゐた。どさくさはすんだ。どさくさと共にその一生もすんだといふ茶番のやうな儚さを彼は考へてゐなかつた。                            (三)

 

最後の一文は、時おり前景化される〈語り手〉のコメントである。如水を中心化しようとしながらも、如水に〈内的焦点化〉されずにむしろ〈焦点化ゼロ〉に分類されるテクストの在り方が、〈語り手〉による如水の相対化として表わされるのである。相対化されるのは如水に限らず、「二流の人」という対比項によって特化されるべき「天才」の一人・秀吉のネガティヴな面がくり返し強調されていて、両者の境界が曖昧になるだけに「二流の人」というタイトルも霞みがちである。曖昧といえば、見てきたように「芸術」対「通俗」も「詩人」対「賭博師」も、如水を「二流」に貶めるためのご都合主義的な対概念にすぎず、明瞭さに欠けていた。〈語り手〉(や〈作者・作家〉)の好みが顔を出してしまうのが一因だと考えられる。前例の無い〈焦点化ゼロ〉を達成した「明暗」の〈語り手〉のような自己抑制を意図したわけでもなく、また鷗外のように意識的に登場人物間の「柁を取る」でもなく、不用意に多くの人物を〈焦点化ゼロ〉的な書法で描いてしまった結果と思われる。

 安吾が無意識の中に志賀文学に典型される〈同一化〉の連鎖を断ったのは確かである。しかし漱石や太宰とは異なり方法意識が手薄だった分、安吾の断ち方はその場限りの中途半端なままで終っている、という仮説を立てていったん論を閉じたい。安吾の〈方法〉をつかむことができれば、この仮説を証すことができるはずであるが・・・・・・また後日。

 

(1) 例えば『ドストエフスキイの生活』(創元社、昭14)の「3 死人の家」に次のようにある。

「多くの批評家は、人間は作品の原因だ、といふ古びた原理に支配されてゐる。丁度法律の眼には、罪人は犯罪の原因だと映る様に。だが寧ろ人間は作品の結果なのである」といふヴァレリイの逆説がものを言ふ好機であらうか。

(2) 小林秀雄が昭和十一年一月に発表した評論文の名。

(3) 本書所収の「太宰文学の特質――志賀文学との異同を中心に」

(4) 「歴史と自然」冒頭の一文に続く箇所を引く。 

ただし私のいう「作家」とは、作品がつくり出す作家ではなく、作品をつくり出す作家、すなわち作品を書くという過程を通してあらわれる精神の働きというようなものである。(略)作家としての秘密とは、彼がなぜこういう作品を書いたかとか、どんな考えをもっていたかというようなことではない。ただ作品を通してあらわれ、しかもその作品をそれ以外のものでなくしている根源、つまりある精神の形態であり創造の秘密である。

(5) 拙著『小林秀雄への試み――〈関係〉の飢えをめぐって』(洋々社、一九九四年)の第二章でも言及した。

(6) 尾形仂『森鷗外歴史小説 資料と方法』(筑摩書房、一九七九年)による。

(7) 「白痴」は伊沢に内的焦点化され、「語りの流れ」を絶たないようにするためなのか、★記号による区切りはあっても章立てがなされていない。そのため引用箇所は『坂口安吾全集 第4巻』(筑摩書房、一九九八年)の頁数を記す。

(8) ジュネット『物語のディスクール』(花輪光他訳、水声社、一九八五年)の分類による、従来の視点人物に近い。後に出る〈焦点化ゼロ〉はいわゆる客観小説に当る。