東京裁判  広田弘毅  城山三郎  フルトベングラー

先ほどテレビ番組「東京裁判」の最終回を見たけど、ホントに深〜い問題を提起していると感じた。
米ソの判事のような国家の枠を出られずに「正義」を振り回す類の判事たちは問題外ながら、やはりパル判事や考え抜き・悩み抜くレーリンク判事(いちおうオランダ)の姿勢には感銘を覚えるものだ。
最後に罪状を議論する場面で、結局絞死刑になる広田弘毅元首相をめぐるところでは、反戦的姿勢を貫いた作家・城山三郎の「落日燃ゆ」(新潮文庫あり)を想起しながら考えさせられた。
裁判でいっさい弁明せずに判決を受けた広田を美化する姿勢で書かれたこの小説は感動的ではあるものの、特に末尾の小説的仮構が虚偽論争を生んだということも付しておいた方が良かろう。
元外相だった東郷茂徳だったかが死刑にならなかったのは、内閣に留まりながら終戦を模索したと評価されたためだと言われると、広田も戦争拡大には反対していたのではないか、それなのに死刑になったのは? と疑問続出する深刻で難しい問題だ。
犯罪的集団からは脱け出して外部から批判するべきか、内部に止まって犯罪を抑える努力をすべきかは、極めて難しい選択だ。
旧ソ連邦から亡命して海外からソ連批判した知識人も多いが、ソルジェニーツィンのように国内に止まりながら困難な闘いを貫いた作家もいたことを忘れてはなるまい。
20世紀を代表するような有名な指揮者フルトベングラーも、ナチス政権下でもベルリン・フィルの指揮者に止まって楽団員のユダヤ人を保護したりしたものの、戦後はユダヤ人の有名指揮者・ワルターや反骨の指揮者・トスカニーニたちからも疎まれたのはよく知られている。
フルトベングラーナチスを支持した指揮者・クナパーツブッシュと一緒にしてはなるまい、クナもワーグナーでは最高の演奏をしたけれど。
4人とも歴史に残る大指揮者で、個性は異にしながらもそれぞれ素晴らしい演奏を残しているけど、音楽のことを語り始めるとキリがないから止める。
小林秀雄も戦後、「進歩的知識人」たちから戦争犯罪を問われたことにも共通すると思われるが、勝ち組が恨みの念を方向違いの形で表すことが往々にしてある。
ともあれ米ソの判事たちが囚われていた、その種の恨み・仕返しの念から自由だったと思われるパル判事たちの主張は、人類が理性を保持していた証左を歴史に残したものと思う。
つい最近でもハイデルベルク大学かどこかで、東京裁判をめぐって戦争を防ぐ方法が国際的に議論されたという。
東京裁判ニュルンベルク裁判(以前アンナ・ハーレントがらみで触れた)も、戦勝国側の「正義」に起因する誤りを含みながら、現代の我々に人類の根本的な問題を提起し続けている。
微力ながらも各自が念頭に置いておかねばならない問題に違いない。