東京裁判  ハル(パル)判事  真珠湾を広島と等価にするナ!!!  「平和に対する罪」と「人類に対する罪」

今日で3回目のNHKの「東京裁判」というドラマを欠かさず見ていて、改めて根底から考えさせられている。
なかでもハル判事(インド代表)が想像をはるかに超えて真っ当な判断力の持ち主だということが伝わってきて、驚き感動している。
裁判をやっていた連合国11人の判事の中で、唯一日本のA級戦犯たちの「無罪」を主張した勇気ある人だとは知っていた。
連合国側が用意した(「でっち上げた」と言ってもいいが右翼のバカ共を調子に乗らせたくない)「平和に対する罪」は戦争終結後に作られたものだから、戦前には無かったその犯罪を日本の戦犯たちに「後付けで」当てはめることはできないという論理(事後法は不法)を貫いたのは、立派過ぎて頭が下がりっぱなし。
第一次世界大戦後のベルサイユ条約が、戦勝国がドイツ等の敗戦国に対するイジメ(抑圧)でしかなかったことは歴史が証明していると思う。
アメリカのウィルソン大統領が唱えた理想に反していたことは、ここでは深入りしない。)
イジメられたドイツが復讐心に燃えてヒットラーを支持してしまったのは、平和よりもイジメ(過剰な賠償金)に徹した戦勝国の過った方針のせいだった。
戦争は勝った方が一方的に正しいわけではないのに、「正義」の立場で敗戦国に「罰」を与えるという子供じみたことをする、その愚行のくり返しだよネ。
ともあれ(事実に基づいていると思われる)ドラマの中でのハル判事の言動は、単に事後法適用に反対するというだけに止まらずに、常に《偏らない》立場を保持しているのは尊敬に値する。
周り中が勝った勢いで「正義」を振りかざし続けているのに対して、冷静な判断力で反論を加えて動じない姿には心打たれるばかりだ。
明日が最終回だけれど、いずれ全べて再放送されるだろうから、絶対見て欲しいものだ。

孤立しながらたった1人で闘うキツサは、学大でセクハラ爺を放置していた村松泰子学長・執行部を追及した時に体験したけれど(正確に言えば支持してくれる人がいたナ)、最近話題の安倍晋三真珠湾訪問について誰もボクと同じ考え方を発信しないので再び名誉ある孤立感(?)を味わっている。
詳しいことは先日ここに記したから繰り返さないが、真珠湾攻撃はせいぜい「平和に対する罪」であって東京裁判でも一方的に日本が悪いわけではないという主張があった通りだ。
しかし広島・長崎に原爆を投下したことは《あってはならない》残虐極まるジェノサイド(皆殺し)であり、「人類に対する罪」なのだということをキチンを押さえておかなければ全ての戦争犯罪が等価になってしまう。
軍港である真珠湾を攻撃されて何千の軍人が殺されたからといって、アメリが日本のほぼ全都市に対するナパーム弾(焼夷弾)攻撃で何百万の無辜(むこ)の一般市民を殺してもいいということには絶対にならない。
東京大空襲によって一晩で何十万の市民の命が失われた悲惨さは、忘れることのできない経験ではあるものの、広島・長崎で一瞬のうちに何十万の命が奪われた残酷さとは決して等価ではない。
アメリカはナパーム弾攻撃をベトナムでもくり返したが、原爆投下はくり返さなかったのは何故か?
原爆投下は《あってはならない》「人類に対する罪」だと自覚していたからだ。
原爆大統領トルーマンに代表されるアメリカ人がいかに低能ではあっても、広島・長崎以降にも原爆を投下するほどバカでも無神経でもなかったということだ。
アメリカ人にしては賢いオバマ大統領は全てお見通しのようではあるが、真珠湾攻撃と広島・長崎への原爆投下とは全然次元が異なっていることを自覚・認識しないと、原爆による犠牲者を犬死に同然に扱うことになる。
前回のブログでも強調したように、真珠湾に慰霊に行くなら南京が先だろうと記したが、他ならぬ中国が同じ主張をしているとのこと、当然だろう。
真珠湾攻撃は軍の施設に対する攻撃であり(フライングの罪はあるものの)、戦争である以上それは数えきれないほど相互でやり合っていることに過ぎない。
しかし南京における大虐殺はそれとは次元を異にするジェノサイドであるから、真珠湾よりも先に謝罪と慰霊がなされなければならないのは当たり前のことであり、その理屈が分からないのは日本の低能右翼だけなのだ。
それでも南京と広島・長崎とを等価にできないのは、原爆という「人類に対する罪」は《あってはならない》ものだからなのだ。