地震と文学  吉田恵理  千葉俊二  磯田道史  石井正己

申し訳ないながらあまり学会誌を読んでいるヒマがないのだけれど、『日本近代文学』の最新号(第98集)にエリちゃん(吉田恵理)の「辺見庸『眼の海』−−わたしの死者たちに」という論が載っていたので、間もなく読み終るところ。
ヒマ無しの身分ながら読んだ理由の1つは辺見庸を論じたものだからで、以前ブログの学会印象記で仲井真クンの「1★9★3★7」論を取り上げた延長という意識があったからだ。
もう1つの理由は、23日の学大国語国文学会で今藤クンが鏡花の「甲乙」を《震災文学》として読むというモチーフで発表するので、そのつながりからだ。
論の対象の『眼の海』を読んでないので、ジックリ読むのではなく細部に拘らずに一読するだけの読み方。
それにしても辺見庸のこの詩集が提起する問題の大きさと、それを的確に押さえた上で自説を展開するエリちゃん(吉田さんと言うと別人みたいなので)の論の運び方に感心するばかり。
単なる中原中也研究者の域を脱して、何でも論じることができる優れた研究者に変貌している手応えを感じて圧倒された。
辺見の詩集の方をキチンと読んだ後で論文を読み込めば、もっと感銘を受ける予感はするけど、今はそんな余裕がない。

実はエリちゃんの論文についての感想は前振りのつもりでいたのだけれど、読むのに時間がかかった分、本題の「震災文学」自体について記すのが遅れてしまった。
本題といっても大仰なことではなく、これを機に手許の震災関連本に目を通したというだけの話。
なぜか田山花袋「東京震災記」という文庫があり、目次が細分化されて入りやすいので手始めにチョッと読んだらけっこう面白い。
チバちゃん(千葉俊二)が編集して贈ってくれた寺田寅彦随筆集『地震雑感 津波と人間』(中公文庫)は重厚な印象の論考が並んでいて、気安く読めるものではないから腰を落ち着けて読めるまで待とう。
寅彦の随筆集は岩波文庫全巻持っているので、それとの重複も気になるものの、退職後の楽しみの随筆集に早く取り掛かりたいものだ。
重厚といえばチバちゃんの近著がスゴイ! 
表題からして『文学のなかの科学』(勉誠出版)というのだから近寄り難い。
それでも第Ⅰ部が「カオス・フラクタル・アナロジー」と題されていて、そのどれにも興味があるので(殊に聴きなれない人もいるであろうフラクタルは、20年も前だろうか知った時には感動さえしたものだ)「はじめに――〈カオスの縁〉の方へ」にとりかかったら、いきなり図表が次々と3ページも現れて拒絶された感が大きかった。
そのまま感想も記さなかったし、思えば礼状も出してなかった。
(などと脱線したまま書いているとこの記事が終らない。)

震災の記録というと思い浮かぶのが磯田道史さんで、ベストセラーの『武士の家計簿』やテレビ番組「英雄たちの選択」のMCだけでなく、朝日新聞で歴史話を連載していた時にも過去の震災を調べているというのでイタク感心したのを覚えている。
その後もその種の記録を調べ続けていることが伝わってきて敬意を表しているのだけれど、忙中ながら震災にまで守備範囲を広げて研究しているのは磯田さんばかりではなかった。
むやみに(?)本を出し続けて贈ってくれるので、会うと「実際には誰が書いてるの?」と冷やかしているのだけれど、学芸大の元同僚である石井正己さんも磯田さんに匹敵するエライ人だ。
『文豪たちの関東大震災体験記』(小学館101新書)は2013年出版のものだけれど、目次には40名近くの文学者名が並んでいて圧倒される。
授業で文学者の震災体験を扱う時は、せいぜい龍之介や花袋くらいでお茶を濁していたけれど、ベンゾーさん(石井さんの愛称)のこの本がもっと早く出ていればもっと知ったかぶりができたのに、と惜しまれたものだ。
しかし古典文学では何でも手を出すベンゾーさんが何故震災にからんで近代文学まで探ろうとしたのかは、「はじめに」や「あとがき」に個人的な事情が明かされていて胸を打つ。
ベンゾーさんを知らない人には個人的な事情は興味がないだろうけど、本文の「体験記」は地区によって分けられたり「流言蜚語・虐殺」や「復興・防災」の主題別にされたりしていて、読みやすいし飽きさせない。
最近の政治的状況に呼応したのか(?)、揺れる大地に安心できない身なのだから、「防災」やネットをにぎわす「流言蜚語」を意識しつつ本書を読むべしだネ。