千田洋幸「ゼロ年代批評とは何だったのか」  宇野常寛  東浩紀

『文学研究から現代日本の批評を考える』の前半分は、編者である西田谷洋や山田夏樹両氏が「ガンダム」を論じているのを始めとして漫画やアニメの論ばかりなので、どれも読んだことのないボクには入って行けない。
後半は文学論になるのだけれど、千田洋幸「ゼロ年代批評とは何だったのか」もまた読んだことのないサブカルチャー論の本や論文が次々を出てくるので、通読できるまで数回途中で挫折してしまった。
千田さんの読書量には圧倒されるばかりだし、ジャンル・視野の広さがまた人並み外れているので呆れるほど。
流行のものには同調しないまま生きてきたので、何でも吸収できる千田さんが使う用語でさえ分からないものもあるのでタイヘン。
パソコンにしてもメールとブログ以外には使えず、ネット検索も最近やっと使いこなせるようになった手応えを感じている身には、マイクロソフトOSやWINDOWS95と言われても肝心なところが伝わってこないし、エケペディアやGOOGLE+となるとまるで意味不明。
それでも「ゼロ年代批評」とそれに前後する時代の批評の特色をソツなく説明してくれているので、「現代の批評」の歴史が初めて理解できた気になれたので有り難かった。
ボクのように取り残された人には一読を勧めたい優れて面白い論考だ、近著『危機と表象』(おうふう、2000円)にも再録されていて入手しやすいので買うべし!

そもそも「ゼロ年代批評」自体についての知識を欠いていたので、それが一時期マスメディアに露出し続けていた宇野常寛が領導した批評期であり、彼が消えたと共に時代の希薄さをさらしたという事情が理解できた。
千田氏によると、ゼロ年代直前の九〇年代はカルチュラル・スタディーズ隆盛の時期であり、ボク等のような《文学の自明性を疑わない方法は軽蔑され、周縁化されて》いったものの、《研究/研究者は現実世界の秩序にコミットし、その変革に貢献しうる、という楽観的な認識を多くの人々が共有していた時期でもあった》と整理される。
ゼロ年代は、そういう研究の言葉が誰にも届いていなかったという事実が露呈した時期》ということだそうで、ボク等からするとあまりに当然の成り行きなのだけれど、体験しないと言っても分からない問題なんだナ。
良くも悪くも若さの遠心力に任せて「現実世界」に自己投企(アンガージュ)せずにはいられない時期ということであり、そういう意欲・情熱が無ければ挫折した後の文学や哲学に対する求心力も保持できないということだろう。
ゼロ年代に至って理論上の閉塞が明瞭になった》「間隙」をぬって登場したのが宇野なのだそうで、千田氏によると宇野の得意な戦術はショートカット(短絡)とのこと。
《さまざまな作品ジャンルの物語切片と自己の分析の切片をつなぎあわせ》ると続くと、「短絡」や「パッチワーク」という言葉でボクが批判してきた批評・研究の中に宇野もくくっていいようだ。
宇野は蓮実重彦柄谷行人を毛嫌いしているそうでその心意気は買いたいものの、文学論となると古臭い考え方から脱し得ていないままだというのだから笑える。
こと文学論になると、千田氏もよく引用・依拠している東浩紀も失笑が漏れる非知性的レベルのようで(注4参照)、文学もサブカルチャーも自在にかつ正確に論じ尽くす千田洋幸の卓越した能力が逆照射される思いだ。
以上、我田引水しながら千田論を紹介してきたが、注1にも紹介されている『日本近代文学』第85集に掲載された「ポップカルチャージェンダースタディーズの行方」も一読をおススメしておきたい。
これも以前読んだ時に強い刺激と教示を得た優れた論考だけれど、もう錆びついた脳が言うことを聞かなくなってしまったので、これにて。
ともかくも、千田洋幸読むべし・買うべし!