河添房江さんの退職記念講演とパーティ(2・17)

河添さんの講演はケン爺(宮腰賢先生)の言う通り、内容の選択や時間配分など「前代未聞の完璧」さだった。

内容は表題どおりの「我はいかにして源氏研究者となりしか」だったので専門外の自分にも分かりやすかったし、資料として厚い冊子とB4用紙が1枚配布されたので、一段と理解しやすかった。

このソツの無さ自体が河添さんを表していたと思うけど、これもケン爺の言うとおり前もって時間をかけて綿密に練り上げた成果なんだろネ。

十分昼寝してから出かけたので眠気に襲われることはなかったものの、ギリギリの時間に着いたらしくいきなり「関係者席」ということで一番前に座らされてしまった。

始まる前にトイレに行くつもりだったのに、始まってしまったからガマンしていたものの、2時間は持たない身体になっているので、最後の大江健三郎の話題になったのを幸い(専門に近いので)トイレに駆け込んだ。

4歳下の河添さんもいずれ分かると思うけど、加齢とともにトイレが近くなるのだナ、膀胱のキャパが小さくなるからネ。

トイレを済ましてからは、すぐに終わると思って外から覗いて知ってる参加者を探したけれど、退職後も図書館で世話になっているトクちゃん(徳永)は見かけたものの、あらかじめ示し合わせていたヘイカの姿は発見できなかった(最後尾で拝聴した後すぐに帰ったと知った)。

最初に入室してすぐにハルチンが寄ってきてくれたので、このところ会えずに心配していた気持が噴き出て、思わずハイタッチしてしまったヨ。

内田先生のお姿も見かけて安心できたけど、体調が芳しくないとかで講演後すぐに帰られたのは残念だった(一緒にいた城田や朝子ちゃんにも会えたのは収穫)。

ヒグラシゼミのレギュラーであるエトワール(赤星)君も見かけたけど、ベンゾー(石井)先生と話しているうちに帰ってしまったようだ。

ベンゾーさんとは韓国帰りの院修了生の件で、大事な話があったからパーティで続きを相談することにした(タイヘンな状況下の卒業生もいるのも仕方ない)。

学大赴任してすぐに担任した安藤クンに会えたもの嬉しかったけど、福島県中通りの教員なので、大災害当時は浜通りからの被災者を受け入れるので大変だったとのこと。

助手だったクミちゃん(奥田)が宇都宮名物のお土産をジャミラへとくれたのはイイけど、期待してなかったので会えたこと自体とても嬉しかった。

学部は違っていたけど宇都宮大学時代の同僚だった父君(一緒にテニスをやったものだ)もお元気とのことで、河添さんの催しはまさに望外の喜びを運んでくれた感じだネ。

指サック(山田)先生はパーティの時に、知っている人が少ないと言っていたけど、ボクとしては昭和ゼミ員以外にも顔見知りの卒業生が多かったので、吾ながら驚く程だった。

でも顔は覚えていても名前が出ないのは在職中から加速度が増しているので、オカキュウ(岡久)やイガワさん(イグチだと覚えていた)などには失礼した。

ダイちゃん(松本)は後姿ですぐに分かったし、本橋裕美さんは目立っていたので分かったし、ヨシノ君は卒後もよく見かけていたので分かった。

会場で本橋さんが作成したという、河添さんの還暦パーティの際に流した「河添房江の半生」という写真集には笑えて、思わず「結婚式か!?」とつぶやいてしまった。

 

「いかにして源氏研究者になりしか」はとても興味深いテーマで面白い話だったけど、河添さんの一族が研究者や医者であることとつながっているので、他人事(ひとごと)として聴くしかなかった。

ケン爺は自分が畳屋の息子なので河添家の話は別世界だと言っていたけど、祖父の代からの靴屋だったボクとしてもまるで別世界なので驚いたネ。

講演にも現れていた文字どおりの優等生の河添さんと比べると、それと正反対の自分のジンセイが顧みられて改めて我が半生の面白さを実感したものだ。

疲れたし長くなるので、このへんで端折ります。