【読む】『太宰・安吾に檀・三島』より「太宰文学の特質 志賀文学との異同を中心に」

 あれこれ振り回されている感じのうちに、『シドクⅡ』をアップするのを忘れていたヨ。今まで何をアップしたのか定かでないけど、巻頭論文はまだなのは確かだネ。学術論文的なものから離れて(元々そんな大それたものを意識したことないけど)、《読み物》を心がけて書いたもの。サーッと読みかえしてみたら、我ながら意外に面白い。敬愛する(大学のではない)先輩研究者が、〈同一化〉と〈他者〉とを対義的にしながら論を展開しているところが利用できそうだ、と評価してくれたのが嬉しかったネ、「届いた」感じがして。最近の若い研究者は、1つの作品・1人の作家について徹底的に《読み込む》ことをしないからネ。先輩や同世代の研究者だけでも、届けば楽しんでもらえるからネ。

(『シドクⅡ』の原稿からコピペしようとしても上手く行かなかったので、雑誌に送った最終稿をコピペしたヨ。小見出しが消えてしまったけどネ。)

 

 太宰文学の特質――志賀文学との異同を中心に 

                                        はじめに

 

 表題がいかにも風呂敷きの広げすぎという印象で、吾ながら羞いを感じないわけではない。これまでのように個別の作品という枠内で論じようとしているわけではないので、大仰でもやはり「太宰文学」(と「志賀文学」)と振らざるをえない。旧著①で小林秀雄を論じた際に、作品という枠を取り外し、小林が発表したもの全体を一つのテクストとして様々な切り口で読んでみたのが、その手口である。意図したわけではないものの、これまで少なからぬ太宰作品を論じてきたが、時折一作品に閉じて考えても解けない問いが残され、それらをまとめて考えてみたいというのが論のモチーフである。もとより太宰作品を網羅的に読み込んできたわけではないので、時期尚早は自覚の上でそしりは甘んじて受けるものの、さりとて放っておけば怠惰な身にその時が来るとも思えない。

 太宰文学の特質を基本的なところから捉えようというのだから、やはり他の作家の特質と対照するとその差異を明確にしやすかろう。ここでは太宰文学に因縁浅からぬ、志賀直哉の文学との異同を中心に考えて行きたい。その死によって中断された太宰のエッセイ「如是我聞」(昭23)を取り上げ、志賀の文学世界が<自己完結>的に閉じていて時には<自己閉塞>に陥ることもあり、それに比べると太宰の文学世界は無防備なまでに「開かれてある」と論じたことがある。②その際、両者の違いを必要以上に強調しすぎた憾みが残り、多少の修正を施してこの間の宿題から解放されたい、というのも本論のモチーフに含まれている。

 

漱石文学の変遷

 

作家の変容を考える場合、今さらめくが漱石の行程をモデルとして意識しておくと論の展開が簡明になると考える。少々迂路になるが、太宰(・志賀)文学を視野に置きながら、周知の作品を例示しつつ漱石文学の変化をたどることにする。キイワードとしては、広く先行論を引き継げるように単純化し、<同一化>(共感・自己同化)と<他者>(不可解なもの)とを対義的に使いながら、主人公・他の人物・語り手・作者・作家のそれぞれ相互の関係を追っていきたい。

登場人物レベル(作品世界)で言えば、「吾輩は猫である」「坊つちやん」から「道草」「明暗」の世界への変貌は、<他者>の不在から<他者>による相対化への変化であり、言葉を換えれば否応なく不可解な存在に出会っていく過程である。「坊つちやん」の善悪二元論の単純明快で絶対的な世界観は一時的な夢として退けられ、不可解な「帽子を被らない男」との出会いから始まり、健三自らが他者(妻)にとって「なんだかちっともわかりやしない」存在に化しつつ、「世の中に片付くなんてものはほとんどありやしない。」という相対世界を痛感して終る物語へと様変りしていく(「道草」)。健三とお住との間には、もはや「門」の宗助・御米夫婦が醸し出す<同一化>は失われている。<同一化>を遡れば、坊ちゃんと清との間に母子関係のように理想的な形で形象化されていたものであり、意気投合という形で坊ちゃんと山嵐との間にも成立していたものでもある。

こうした観点から読めば、故郷という<同一化>の世界から<他者>に充ちた東京に出てきた三四郎にとって、汽車の女をはじめとして女性なるものは不可解さを伴って現われてきたのだった。美彌子も<他者>として現れ、<他者>として去って行ったことになる。男にとって不可解な女を遡れば、「行人」の直子を通って「明暗」の清子に至る。三四郎を完全に「謎」(不可解)のただ中に放置して去って行った美彌子に対し、三四郎は果たせなかった夢を呼び戻すかのように「ストレイシイプ」という呪文を繰り返すほかない。

「明暗」の津田は己れを裏切って他の男と結婚して去った清子に、人が<他者>に化する機縁を問いたださずにはいられぬまま伊豆まで追って行く。津田の自覚としては《いまだかつてあの女をもらはうとは思つてゐなかつた》(「明暗」二)新妻の延子は、従妹に向かって《「ただ自分でかうと思ひ込んだ人を愛するのよ。さうしてぜひその人に自分を愛させるのよ」》(同・七二)と熱弁を振るう女である。夫の側は妻に対して<同一化>を意識したことがないにもかかわらず、妻の方はそれを信じている(正確には信じようとする)という行き違いは「明暗」のどの人物にも感受でき、<同一化>が断たれた作品世界の風通しをよくしている。「吾輩は猫である」の閉塞した書斎には感じられなかった風であり、現実世界の感触のようなものが伝わってくる、と言ってもよかろう。「明暗」以前の日本の小説には見られなかった特徴である。

登場人物達が相対化し合うこの息苦しくなるまでの作品世界においては、中心人物のように見える津田も相対化から免れない。周り中<他者>に囲まれていると思わざるをえなくなった津田ではあるが、その契機が<同一化>し合えたものと信じていた清子の裏切りだったわけである。苦しんだのは津田を始めとする登場人物に止まらず、苦悩はまた作者のものであった。「明暗」は日本文学を貫く<同一化>の遺伝子(日本的心性)との闘いに無理を続け、中途で果てた記念碑に違いない。一人称の語りから脱することができなかった太宰には、「明暗」のような小説は不可能だった。事情は「僕」という一人称に膠着し、「僕」と鼠の共振から始まった村上春樹の現在にも通じているように思える。

漱石の行程は小説の創作として入りやすい一人称語りから始まり、「明暗」によってバター臭い「焦点化ゼロ」(神の視点)の方法の獲得を目指したものであったというのが通説であろう。この道は登場人物から言っても描写の方法から言っても、<一元的>なものから<多元的>なものに向かうものである。世界は善悪二元論の透過的なものから、不可解・不透明な<他者>が遍在するものへと変貌していく。志賀直哉は言うまでもなく、漱石のような冒険とは無縁の創作を続けて終っている。太宰治はその志賀を強く意識し続けながらも、時おり<同一化>の世界を破ろうと試みた、という見取り図を持って論を進めたい。

 

  2

 

死に対しても自己を開いてしまった晩年の太宰にとって、焼け跡を走る電車内の衰弱した浮浪児を撥ね退ける志賀のふてぶてしさは(「灰色の月」昭21)、及びがたいものとして憧憬と反発の入り組んだ対象だったと察せられる。「如是我聞」で過剰なまでに志賀批判に徹した太宰の心底には、一方的に敬愛の念を寄せていた志賀直哉から、自作「犯人」を酷評された痛恨の痛みがわだかまっていたのは否みがたい。愛憎反転する強さで非難した程かつては傾倒し、志賀文学の影を少なからぬ形跡として太宰が自作に刻んだのは、志賀の文学世界に強い親近感を抱いていたからだと考える(前掲論文)。

 志賀文学は<他者>を抹殺した世界だ、という見方が繰り返されてきた。主人公の大きさに比べれば、他の人物は皆極小の存在でしかないというわけである。文字どおり殺人を素材にした作品を上げれば、「剃刀」(明43)の芳三郎は高熱のために自己制御が破綻して客の若者を殺し、「濁つた頭」(明43)の津田は妄想の果てにお夏を殺し、「祖母の為に」(明44)の「自分」は祖母の生死を左右するという関係妄想が進行して葬儀屋を想像の中で殺し、「クローディアスの日記」(大元)のクローディアスは精神のバランスを失したままもう一人のハムレット(自己閉塞)に変貌してハムレットその人の暗殺を企てるに至る。小林秀雄が「病的神経を扱つた小説」(「志賀直哉」昭4)として引用している「児を盗む話」(大3)のように、殺す代わりに幼児を誘拐して<自己閉塞>を打破しようとすることもあるが、この作品に限っては<他者>像は具体的な形をとらない。父との対立がもとで家出をするところから始まる作品であり、<父殺し>が志賀文学のテーマではあるものの、父は他者としては括れまい。

小林は「児を盗む話」をこの種の小説中「類型を見ない傑作」と持ち上げているが、若年に「病的神経」に苦しんだ小林自身が特有の詭弁を弄し、いやでも健康な志賀像を造型せずにはいられなかったためである。志賀の「病的神経」は「肉体」から遊離しようとするが、離れきれずに「肉体」に止まらざるをえぬまま「実生活」に映像を索めるのだという論法である。志賀直哉像を自己分裂と無縁な存在として美化しつつ、それに<同一化>することで己れの健康を回復して自己救済を図ったのである(前掲拙著)。同じ様相を示しているのが「富嶽百景」(昭14)であり、揺れ動く「私」を安定させるべく、動かぬ富士に種々な意味を託しながら<同一化>を志向することによって<自己救済>を目論んでいる。

拙稿でも志賀テクストには<等身大の他者>が存在しない、という言い方を繰り返してきたが、志賀の世界には主人公を相対化できる<他者>が現れないという意味である。しかしひるがえって太宰の文学世界には<他者>が存在するのか、と自問した時にポジティブな自答は下しにくい。太宰文学には太宰なりの<自己完結>の仕方があった、と考えるからである。

 前述の「如是我聞」論でも論じたとおり、《あの人は、誰のものでもない。私のものだ。》(「駈け込み訴へ」昭15)というユダの主張は、独占欲であっても愛ではない。ユダが愛していたのはあくまでもイエスに執着する己れ自身であり、ナルシシズムに囚われたユダはイエスを「隣人」として愛しているわけではない。ユダを典型とする太宰の<弱者>達は、皆志賀直哉的<強者>の反意語という見せかけでいながらも、彼らの<自己肯定>の強さも隠しようがない。「如是我聞」と同じ頃でも、「斜陽」(昭22)のかず子の無自覚な<自己肯定>的な在り方は、意外に見落とされてきたようである。意識的に<死>に向かって<自己閉塞>していく直治の単純さは見やすいが、これと対照的なかず子の、<生>に向かって<自己完結>的に閉じようとする姿勢が、多少買い被って理解されてきたためである。

《私には、はじめからあなたの人格とか責任とかをあてにする気持はありませんでした。私のひとすぢの恋の冒険の成就だけが問題でした。さうして、私のその思ひが完成せられて、もういまでは私の胸のうちは、森の中の沼のやうに静かでございます。

 私は勝つたと思つてゐます。

 マリヤが、たとひ夫の子ではない子を生んでも、マリアに輝く誇りがあつたら、それは聖母子になるのでございます。》(八)

旧来の道徳からの解放感に酔った勢いに乗り、上原や直治のようなインテリから吹き込まれた新時代の価値観に振り回されながら、猪突猛進しているのがかず子というヒロインの姿である。同意なしに己れの子供を生むと言われる上原の思惑など、かず子の眼中にはない。デカダン気取りの甘ったれた上原も上原ならかず子もかずという様で、それぞれ戦後の風俗としてはリアリティをもって写し出されているとも言える。かず子は読み手の支持は得られても、否定・批判の目にはさらされることは不思議に少ないが、主人公や語り手に読者を<同一化>させる、太宰の絶妙な手口によるのであろう。また右の二人に加えて、母と直治との四人はすべて太宰の<分身>だと捉える批評もあるが、それほどにこの四人が<同一化>を感じさせる、ということの証左だと言えよう。

 

  3

 

強者の<自己完結>に対する弱者の<自己完結>、志賀直哉太宰治、両者の文学の差異と共通点は見やすいようで見えにくい。

 《裁判官は何かしれぬ興奮の自身に湧き上がるのを感じた。

  彼は直ぐペンを取り上げた。そしてその場で「無罪」と書いた。》(「范の犯罪」大2)

 《「私たちの知つてゐる葉ちやんは、とても素直で、よく気がきいて、あれでお酒さへ飲まなければ、いいえ、飲んでも、……神様みたいにいい子でした」》(「人間失格」昭23)

 それぞれ范と葉蔵という主人公の生(行)き方を他の登場人物が支持・肯定するという、(見方によれば共に白々しくも思える)手付きとしては同工である。主人公の生き方を相対化する視座が欠けている点では同列ではあるものの、その<自己完結>の様相は少々異なっている。片や若年のエネルギーに満ちている時期に<自己貫徹>の倫理を宣言したものであり、一方は死を待つばかりの晩年のものである。志賀テクストは生きていく上での拠り所を摑んだ范の手応えを裁判官が追認し、太宰のそれは<恥の多い生涯>を吐露した葉蔵の自覚を、バーのマダムが優しく救い・癒そうとしている。《「人非人でもいいぢやないの。私たちは、生きていゐさへすればいいのよ」》(「ヴィヨンの妻」昭22)にも全く同じ響きを聞くことができよう。志賀の人物像が確信に満ちているとすれば、太宰の人物達は誰もが皆弁解めいた口ぶりで対照的である。(念のために付しておけば、先述のかず子の場合の「確信」は開き直りによる自暴自棄にすぎないので、錯覚であるかぎり誰からも支持されないままいずれ破綻を迎えることになるのは明らか。)程度の差はあれ、裁判官が范に<同一化>してその生き方を肯定し、マダムが葉蔵を「神様」にまで高めつつ相対化されることを阻む無限包容的な姿勢は、他の人物による主人公への<同一化>として共通している。予断を含めて、主人公・他の人物・語り手・作者・作家という<同一化>の連鎖こそが、志賀文学と太宰文学との共通点だと言っておこう。テクスト内に異和を呼び込んで<同一化>を破砕したのが坂口安吾だと考えるが、安吾については別稿を準備中なのでここでは控える。

 

右に上げた<同一性>の例が、他の人物から主人公に向かう方向のものだとすれば、主人公から他の人物や動物に対する<同一化>が読み取れるものが、例えば「城の崎にて」(大6)であり、「魚服記」(昭8)である。

 《忙しく忙しく働いてばかりゐた蜂が全く動く事がなくなつたのだから静かである。自分はその静かさに親しみを感じた。自分は「范の犯罪」といふ短篇小説をその少し前に書いた。范といふ支那人が過去の出来事だつた結婚前の妻と自分の友達だつた男との関係に対する嫉妬から、そして自身の生理的圧迫もそれに助長し、その妻を殺す事を書いた。それは范の気持を主にして書いたが、然し今は范の妻の気持を主にし、仕舞に殺されて墓の下にゐる、その静かさを自分は書きたいと思つた。》

「范の犯罪」の裁判官のように、<他者>と化した妻を死に至らしめる范の側に与するのではなく、「城の崎にて」の「自分」は殺された妻の側に自己同化したい気分でいる。この心の傾きは死んだ蜂や首に魚串を刺し貫かれた鼠に、そして偶然殺してしまった蠑螈に過剰なまでに寄り添って<同一化>している「自分」の在り方と地続きである。虚構の人物でありながらも范の妻に、そして小動物達に対して、生死の境を越え、あるいは人間と動物との境界を踏み越えて自己同化している、そこに<同一化>の拡がりを見ることができよう。

 意外(?)なことに、太宰治にも人間以外の動物に自己同化する作品が散見する。初期のものでは「魚服記」の世界が、民話的なテクストにありがちなとおり、動物と人間の境界が取り払われている。スワは滝壺で事故死した都の学生に識域下で同化しており、また大蛇に変身した八郎には意識して<同一化>していたからこそ、自分も死ぬと大蛇になると思い込んでいたわけである。スワが小鮒に変身して終るのも、人間と動物の境を越えた<同一化>に至っている。さらに思春期を迎えたらしいスワが「くたばつた方あ、いいんだに」とまで嫌悪し、いったんは<他者>化した父親ではあった。が、山人と思われた父親に犯されながらも滝壺に投身する際に、スワの口から洩れるのは「おど!」という言葉である。それが恨みや断罪の言葉とは受け取りがたい以上、ここでも究極的には<他者>が存在しない形で作品が閉じられている。《当初は「三日のうちにスワの無慙な死体が村の橋杙に漂着した」といふ結びの一句を考へてゐた》(今官一宛、昭8・3・1)という書簡が残されているが、スワの死体が発見されては<物語>(民話)が近代的な<小説>に変質してしまう。リアリズム世界を越えて人間と動物とが<同一化>した世界に自分を放とうとするなら、「魚服記」にとってスワの死体は付してはならない蛇の足だったのである。

 

   4

 

太宰作品の中で動物への<同一化>を志向したものを上げるなら、「畜犬談」(昭14)は外せない。井伏鱒二から受け継いだ<自虐の笑い>を縦横に放った好短篇である。漱石が猫なら太宰は犬で笑わせたと併記できるほど、明治以降では数少ない<笑い>の文学として異彩を放っている。<自虐>ももう一人の自分との狎れ合いであるという意味では、<同一化>の戯れと言えよう。

 《私は、犬に就いては自信がある。いつの日か、必ず喰いつかれるであらうといふ自信である。私は、きつと嚙まれるにちがいない。自信があるのである。よくぞ、けふまで喰いつかれもせず無事に過ごして来たものだと不思議な気さへしてゐるのである。諸君、犬は猛獣である。》

 井伏直伝の大仰な表現で笑いを誘っているわけだが、本当に犬を恐れる者にはこのような見え見えのウケ狙いの語りなどできようがない。「私」が犬を怖がっていた昔ならともかくも、「そろそろ秋風吹きはじめて来た現在」の時点から、半年間のことをふり返って物語っているのだという前提を忘れてはならない。《半年も共に住んでいながら、いまだに私は、このポチを一家のものとは思へない。他人の気がするのである。》と記してはいるものの、妻の発話は「私」の言動の真実味を大きく損ねている。

 《さうして、私の顔色を伺ひ、へつへつへつと卑しい追従笑ひをするかの如く、その様子のいやらしいつたら無かった。

「一つも、いいところないじやないか、こいつは。ひとの顔色ばかり伺つていやがる。」

「あなたが、あまり、へんにかまふからですよ。」家内は、はじめからポチに無関心であつた。》

《だめだ。僕は、可愛いから養つてゐるんじやないんだよ。犬に復讐されるのが、こわいから、仕方なくそつとして置いてやつているのだ。わからんかね。

「でも、ちよつとポチが見えなくなると、ポチはどこへ行つたらう、大騒ぎじやないの。」》

 《「ご近所にわるいわ。殺して下さい。」女は、かうなると男よりも冷酷で、度胸がいい。

「殺すのか。」私はぎよつとした。「もう少しのがまんじやないか。」》(以上傍線引用者)

 妻が「無関心」に見えてしまうほど、ポチに対する「私」の関心は強いということであり、それを指摘されると虚しい屁理屈を並べるしかない。ポチとの<同一化>を通じて、「私」の犬に対する恐怖感は和らいでいると思われるものの、笑いを通すという目的のために建て前としての犬嫌いを押し通そうとする語りである。しかし皮膚病を患ったポチを自分の手で殺す成り行きになると、極めつけの屁理屈を用意して犬殺しを断念してしまう。

 《「だめだよ。薬が効かないのだ。ゆるしてやらうよ。あいつには、罪が無かつたんだぜ。芸術家は、もともと弱い者の味方だつた筈なんだ。」私は途中で考へて来たことをそのまま言つてみた。》

 「私」がポチに薬を飲ませたのか、そうしなかったのかは明言できないものの、死なずにいたポチを二度と殺そうとはしない。ポチについて「性格が破産しちやつたんじやないかしら。」と耳学問らしき言葉で妻に茶化されると、「私」は「飼い主に、似て来たといふわけかね。」とふて腐れていたが、殺すことが目的ならば次の手を打つはずである。そう読めば、<同一化>したポチを殺すに忍びずに薬を与えなかった可能性も無いわけではない。一般的に語り手の言をそのまま受け取って薬を与えたと読むべきであろうが、何せ殺せなかった時点から殺す対象と<同一化>していた上に、冒頭の過剰な語りのノリである。一人称小説につきまとう語り(手)に対する信頼のレベルという問題が派生する。テクスト末尾で「皮膚病なんてのは、すぐなほるよ。」と根拠もなしに語っているが、既に皮膚病も治った後の安心した気持で全編を語っているのであり、毒を入れなかったとしても、入れたように語る(騙る)のは造作もないわけである。

   5

 

以上、太宰と志賀文学の共通性を見てきたが、次にはひるがえって主人公とその他の人物との関係を見ながら、両者の文学の相違を探っていきたい。

 《私は近頃自分に本統の生活がないという事を堪らなく苛々して居た時だつたからです。床へ入つてもだうしても眠れません。興奮した色々な考が浮んで来ます。私は右顧左眄、始終きよときよとと、欲する事も思ひ切つて欲し得ず、いやでいやでならないものを思ひ切つて撥退けて了へない、中ぶらりんな、うじうじとしたこの生活が総て妻との関係から出て来るものだといふ気がしてきたのです。》(「范の犯罪」)

 「本統の生活」を希求してやまない范は、今日風に言うならば<自分探し>をしているわけであろうが、「本統」の「自分」を追い求める力があり余って結果的に妻を死に至らしめる。それが故殺ではなく無意識のうちに(つまり「自然に」)為され、范自身のみならず裁判官によっても肯定されるところが、いかにも内的自然を絶対化する志賀文学である。自己に対して<他者>化した存在を自分を守るために抹殺していく、というところが志賀文学が<強者>の文学たる所以である。

 《つまり、わからないのです。隣人の苦しみの性質、程度が、まるで見当つかないのです。(略)……考へれば考へるほど、自分には、わからなくなり、自分ひとり全く変つてゐるやうな、不安と恐怖に襲はれるばかりなのです。自分は隣人と、ほとんど会話が出来ません。何を、だう言つたらいいのか、わからないのです。

そこで考へ出したのは、道化でした。》

 葉蔵にとって自分以外の「人間」は皆不可解であり、自己とは異質な存在は「恐怖」の対象以外ではない。人間を恐怖する葉蔵がとった戦略が言うまでもなく「道化」であり、「道化」を見破って<他者>性を露わにする相手が現れるとこれを必死に取り込んで「不安」を解消しようとする。最初に<他者>性を現すのが「白痴」の竹一であり、葉蔵は竹一を手なずけるのに懸命になる。竹一に「おまへは女に好かれる」と保証されるとおり、女達は不思議に皆葉蔵を迎え容れてくれる。シズコしかり、ヨシ子しかり、バアのマダムしかりであり、葉蔵に対してはそろって母性的な包容ぶりを発揮する。竹一が示した<他者性>は女達からはほとんど感受されず、葉蔵との距離を無くすことを喜ぶような<同一化>志向が見て取れる。志賀文学には見出しがたい傾向といえよう。

 女達とは異なり、竹一を始め男は不可解な<他者>そのものであり、堀木やヒラメのように(シズコをレイプする編集者も)葉蔵を信用せず・軽視し・裏切っても平然としている。葉蔵を恐れさせているのは「人間」ではなく、「男」ではないかと言いたくなるほど男女が分節化されているように見える。「暗夜行路」における兄信行、「和解」の叔父や「М」のように、主人公を支えつつ<同一化>する男性の存在が太宰テクストには見出しがたい。

 《「ところが結局寛大になれなかたつたといふのか」

  「さうです。赤児の死だけでは償いきれない感情が残りました。離れて考へる時には割に寛大で居られるのです。ところが、妻が眼の前に出て来る。何かする。そのからだを見てゐると、急に圧へきれない不快を感ずるのです。》(「范の犯罪」傍点原文)

 《直子は無理に乗らうとした。そして半分引きずられるやうな恰好をしながらやうやく片足を踏み台にかけ、それへ立つたと思ふ瞬間、ほとんど発作的に、彼は片手でどんと強く直子の胸を突いてしまつた。直子は歩廊へ仰向けに倒れ、惰性で一つ転がりまた仰向けになつた。》

         (「暗夜行路」第四篇・八)

 結婚する前後の違いはあれ、范も謙作も共に妻はその従兄と肉体関係を結んでいる。従兄妹同士という関係は、幼ななじみだった直子の場合のように身も心も隔たりが小さいのかもしれないが、范や謙作にとって他の男の手が付いた妻は<他者>化して許容することができなくなる。いずれの場合でも、「こころ」では許しても「からだ」が拒絶しているが、肉体の反応であるということは、より根源的な反発だといえる。范はキリスト教にすがり《だうかして自分の心を和げて憎むべき理由もない妻を憎むといふ、寧ろ乱暴な自分の心をため直して了おう》と図るが、「心」によって己れを自由にできると考えるところが、キリスト教に親しむところと相まって范の観念的な在り方を明かしている。むろん「本統の生活」を追求するという、その前提となる<真の自己>があるなどと錯覚するところに范の観念性が判然としてはいた。「自分の心」(意識)では制御できない自身の「からだ」(無意識)が敢行した妻殺しによって、范はようやく活路を開くことができたという物語である。

 謙作は范と異なり経済的ゆとりがあるので、直子との<二人>の生活から離脱して<一人>で大山に籠る。大自然の中で癒される展開はそれなりの説得力があるものの、自己救済が果たされたのが単に心身の衰弱によってだとすると、枕頭の直子に「私は今はとてもいい気持なのだよ。」とは言いながらも、回復した謙作が再び直子を突き飛ばさないという保証はない。問題は<二人>の生活が始まってからのはずだが、テクストはここで途切れる。一対の男女が<二人>で葛藤を乗り越えていくという物語は、志賀文学にはついに見出すことはできない。徹頭徹尾<自己完結>の文学たるゆえんである。

 

   6

 

志賀作品を強く意識していた太宰が、志賀テクストにおける妻の過失という問題までをも念頭にしたわけでもあるまいが、「暗夜行路」完成(昭13)から隔たらずに発表されたのが「姥捨」(昭13)である。コキュの懊悩の果てに妻と心中行に及ぶこの作品が、太宰自身の事実を素材にしているとすれば、虚構の物語である「暗夜行路」とのつながりは薄いはずである。それにしても、過失を犯した妻に対する思いには個体差が際立たないものなのであろうか。

 《責任は、みんなおれに在るのだ。世の中のひとが、もし、あの人を指弾するなら、おれは、どんなにでもして、あのひとをかばはなければならぬ。あの女は、いいひとだ。それは、おれが知つてゐる。信じてゐる。

  こんどのことは? ああ、いけない、いけない。おれは、笑つてすませぬのだ。だめなのだ。あのことだけは、おれは平気で居られぬ。たまらないのだ。

  ゆるせ。これは、おれの最後のエゴイズムだ。倫理は、おれは、こらへることができる。感覚が、たまらぬのだ。とてもがまんできぬのだ。》

 言葉は違っても嘉七の言うことはほとんど范や謙作の苦悩と同内容であるのが興味深い。「責任は、みんなおれに在る」という「倫理」は范や謙作の自覚と共通しており、何よりも「感覚」が耐えがたいというのは「こころ」では許しても「からだ」が決して許すまでに至らないというのと同然である。

 志賀テクストと差異を見せるのは、引用の前半である。相手の女(妻)に対する卑屈なまでの自己卑下、女を「突いてしま」うのではなく身を挺してまで女を守ろうとする親密な姿勢は、范や謙作には持ちえない。ましてや当の女と「一緒に死のう」という発想など、百パーセントありえまい。相手と無媒介に<同一化>しようとする、この距離感の無さが太宰作品の特質なのである。

志賀の主人公達は自己を守るために、自己と他者との境界を潔癖なまでに明確にするので、自己の輪郭線は判然としているのが常である。本稿の最初に引例した「灰色の月」などその代表的なものである。同じ戦後浮浪児を素材にした太宰の「美男子と煙草」(昭23)と比べれば、その差異は瞭然としている。記者に向かって浮浪児も自分も共に惰天使だと言い、浮浪児の写真を見せた妻からも人違いされ、《「お前は、何を感違いして見てゐるのだ。それは、おれだよ。お前の亭主ぢやないか。浮浪者は、そつちの方だ。」》というぐあいに、自他共に認める浮浪児との<同一化>ぶりである。

志賀に対して太宰の人物群は自己の輪郭線が弱く、他者を弾き返す力に欠けている。己れの側から他者に向かって自分を開き、相手にも開くことを期待しながら自己を他者に投げ出す。常に他者に対して自己同化を図るので、<同一化>が際立ってくるのも当然ということである。自分がへりくだって己れを投げかければ、相手が許容してくれるはずだという主人公達の身勝手な思い込みこそが、太宰治その人の事実を重ねられながら、「甘え」のイメージに増幅されて太宰文学嫌悪の傾向を生じさせている。むろん人間としてマイナスばかりの作家が、深い感動をもたらす高度な作品を残すのも何ら不可思議なことではない。文学の批評や研究において人間自体を問題にしても不毛であり、問われるべきは作品であるのは言うまでもない。

 自死を控えた芥川によって《何よりも人生を立派に生きてゐる》(「文芸的な、あまりに文芸的な」)(昭2)と仰ぎみられた志賀の作品世界が、一貫して堅固な<自己閉塞>を続けていたわけではない。晩年の芥川同様に《人生を立派に生きてゐ》ないという自覚を持ち続けた太宰のテクストには、常時他者に対して自己を開く姿勢の人物が現れるとしたら、一方の志賀テクストにおいては一時期に限って他者を排除しない<同一化>志向が現れる。先に論及した「城の崎にて」がその代表例であるが、実生活上でも父との和解が成立した大正六年の作品群にその傾向が強く出るのは、作家と主人公が<同一化>しやすい志賀文学にあっては、必然だった。

 伴侶の過失がもたらす夫婦の危機という素材つながりで言えば、「好人物の夫婦」(大6)は女中に妊娠させたのは自分じゃないという夫の言葉を、妻がそのまま信じることで夫に同化するという話である。夫婦がそれぞれに<自己閉塞>して己れを守っていれば、起こりえない夫婦の<同一化>である。「和解」(大6)については詳細に論じたとおりで、③父性原理による葛藤が中心テーマである志賀文学にあって、珍しく現れる「M」という母性原理によって葛藤の物語が終焉する。闘うために自己の輪郭を強固に保っていた父と子が、それぞれ自己を開いて相手を迎え容れるという母性原理的な在り方ができた時に、和解は唐突に訪れるという運びである。

 

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他の作家の追随を許さない<女語り>の達成は、太宰文学の特質の一つである<憑依>(同一化)の強度によるものであろう。共に名作とは言いがたいが、志賀直哉による「ハムレット」のパロディと比べると「新ハムレット」(昭17)における<憑依>の縦横無尽な自在さが際立っている。「クローディアスの日記」は前述したとおり、ハムレットの頑なな<自己閉塞>を解こうとするクローディアスの試みが挫折し、自身もハムレット(自己閉塞)に陥ってしまう。パロディの試みとしては批評性の効いた試行ではあるものの、志賀直哉という輪郭の強さに阻まれて冷静沈着で悪意を欠いたクローディアスという画期的な像を完成するに至らなかった。志賀の場合は、語り手が生霊のように対象に<憑依>することが困難のようで、結局強靭な作家の枠内の人物像に止まってしまう。すでに指摘があるとおり、「赤西蠣太」における蠣太の性格が作家自身のものだという別の例も挙げておこう。これに比べると太宰の場合は、自己の輪郭線が弱いことと相まって対象に自在に憑依し、語り出すと止どまるところを知らない様である。

 もっとも、太宰文学における<同一化>志向が常に成功しているわけではない。その見やすい例が「惜別」(昭20)であろう。語り手「私」と周(魯迅)との意気投合ぶりに露わな<同一化>はいつもどおりの手際としても、魯迅を意識してしまうと周像があまりに貧相に見え、魯迅太宰治のどちらから見てもミスキャストという不満は免れない。若き日の魯迅たる「周さん」が明確な輪郭を具えた存在として造型されておらず、「私」と<同一化>されすぎて魯迅である周が代替可能な一人の中国人留学生にすぎなくなっているからである。問われるべきは常にその達成であって、中国に同情・愛情を示し続けた泰淳が「惜別」に失望したのも道理で、作品としてあまりに低レベルであり、打率の高い太宰にあっては珍しい失敗作という評価は動かしがたい。時代からの要請(内閣情報局と文学報国会からの委嘱)で已むなく書いた故の駄作、という理屈は通らない。太宰は太宰なりの方法(文学の特質)で結果を出せばよかったの である。内向的な学生から見た周像が歴史上の魯迅につながらなくても、引っ込み思案同士の周と日本人学生との交流が描ききれていれば良かったわけであるが、何とも中途半端な結果というほかない。

 

 <他者>を排除して<自己完結>する志賀文学に<同一化>志向が現れるのが、大正六年からの一時期に限られるとすれば、志賀とは逆に<同一化>の文学として一貫しているように見える太宰の文学に、<他者>が現れるとしたらいかなる場合であろうか? 例えば「きりぎりす」(昭15)のように《おわかれ致します。》と決然たる宣言が見えるのは、<他者>との対決を回避して<同一化>の安逸をむさぼる太宰文学にあっては稀だと言えよう。「姥捨」で見たように「わかれ」ることが不得意な太宰の人物群にあって、「きりぎりす」の「私」は特異な存在のように見える。相手(夫)の思惑など眼中にないまま、身勝手に<自己完結>する「私」は「斜陽」のかず子につながっている。いずれの場合も相手が己れを否定・排除してくるわけでもないのに、言い換えれば相手が不可解な<他者>に変貌してこちらを根本から動揺させるわけでもないのに、自分が取り憑かれた想念のままに別離の宣言をしている点では、「坊つちやん」並みの<自己完結>であって<他者>は不在のままである。

 太宰文学が<語り>の文学であることは誰しも認めるところではあるが、太宰が<同一化>の連鎖に陥りやすい一人称の語りから脱しようと試みたことも知られていよう。例えば「焦点化ゼロ」の試みであった「火の鳥」(昭15)が、残念ながら挫折したわけである。太宰文学において<同一化>が破られたのは、何よりも戯曲というジャンルにおいてであろう。「冬の花火」(昭21)「春の枯葉」(昭21)両作においては、確かに<他者>の声が聞こえてくる。一見すると「冬の花火」(昭21)は数枝が、「春の枯葉」(同)は野中が主人公のように感じられる。しかし両人物共に、テクスト内で小説の場合ほど特化されているわけではない。時代に振り回されて悲喜劇を強いられているのは、数枝や野中に限ったわけではない。例えば数枝の母あさも野中の妻節子も、それぞれの悲哀と苦悩を抱いて生きているのであり、想定される舞台の上で数枝や野中の苦悩がとりわけ大きいとは言えない。悲哀も苦悩も相対的だということが、戯曲という形式によって焙り出されるようである。

 「冬の花火」の幕切れでは、奥田のしなやかな生き方に動かされつつ、節子が野中に対する<同一化>を告白するに至る。これもまた太宰のいつものパターンのように見えるが、野中はすでに死んでいるので手遅れであり、節子の思いは野中に伝わらぬまま閉じられる。太宰の場合、<同一化>の連鎖はジャンルの特質性によって破られた、言い換えれば漱石とは別の形で「焦点化ゼロ」を成し遂げたということである。もちろん戯曲という形式自体が、すなわち<同一化>とは相容れないというわけではない。初期の岡本綺堂の戯曲は、主人公の<自己同一化>をめぐるテーマが繰り返されており、そうした<一元化>された世界は洋行後には<多元化>されていくことは旧論のとおりである。④

 若書きの勢いで、志賀直哉には戯曲が書けないと断言したことがあったが、⑤等身大の<他者>が創出しえなかった志賀には、「冬の花火」も「明暗」も不可能だと改めて言わざるをえない。むろん志賀は志賀なりに、数多の小説家から及びがたい高峰として仰がれる、別の達成を示した事実は決して動くものではない。晩年の龍之介が、志賀文学に対して無条件降伏かに見える絶賛を贈り、昭和文学の基軸となったプロ文とモダニズムの代表的作家である多喜二と横光が、志賀の影響下に小説を書き始めたことは興味深い事実である。また昭和の文学批評を確立した小林秀雄にとっても、志賀の存在が不可欠だったことは本論でも確認したとおりである。一般読者よりも専門の文学者によって強く支持された志賀文学の秘密は、文章・文体を極めたところにあろう。漱石・志賀・太宰という、三人の卓越した文章家の比較という魅力的な問題は、また別稿を要する。

 

(注)① 『小林秀雄への試み <関係>の飢えをめぐって』(平6、洋々社)

   ② 「「如是我聞」 開かれてあることの<恍惚と不安>」(平11・9)

③ 「「和解」 <非・私小説>として」 (『シドクーー漱石から太宰まで』

                                  (平8、洋々社)

④ 「岡本綺堂の初期戯曲 その自己実現の諸相」(同右)

  ⑤ 「「赤西蠣太」 志賀直哉的ということ」(同右)