【ヒグラシゼミ】泉鏡花「黒猫」論の感想

 発表者のイー君がいずれ論文化する発表なので、レジュメの中身には触れないでおいてボクの個人的な感想だけに止めたい。 

 

 乱歩に続いてまたボクの苦手な鏡花とは、我ながら苦笑が洩れるネ。この2人について論文が書けるということ自体が信じがたいくらいだナ。ことに鏡花の方は、テクストの世界に入っていくのにいつも苦労するネ。大学院の時に故・越智治雄先生の授業で鏡花の戯曲を読んだけど、戯曲の読みやすさもあってそれほどの抵抗は覚えなかったと思う。三島とは別の意味で「鏡花も戯曲だ」ネ、三島は概して戯曲の方が優れていると思うし、鏡花は小説も戯曲(舞台)の世界になっているという意味でだネ。

 「黒猫」のグロテスクな世界も小説としては違和感(ありえねエ!)の連続だけど、舞台上(戯曲)の世界として受け止めれば抵抗がやわらぐというもの。歌舞伎では常連のような「座頭」である富の市が出てくるは、猪の千吉が《見懸(みかけ)は吝(けち)な野郎だが、と音羽屋でいきてい処、》(九)などと歌舞伎を意識した口をきくはで、後半の急展開に至る以前から舞台を思わせる雰囲気がただよっていると感じた。

 特に気になったのはお島という髪結い女の過剰さで、まさに歌舞伎の世界の存在であって東京にいれば《一月数十金を得べき収入を、瓦礫の如く打棄てて、落籍(ひか)される小俊に随行し、去年(こぞ)の春、ともに此地(このち)に下りしなり》(十二)と新橋の芸妓だった小俊に義理を立てて東京を捨てたほどである。此地では小俊の髪以外は《己が気に向かざる者は、一櫛とて容(い)るることなく》(同)というほどの「鉄拐無類の婦人(おんな)」というのだからまさに《義理》に生きる女だ。

 その義理も小俊に対してだけでなく過剰に発揮されるから、冨の市に対する《人情》(?)で小夜をダマして冨の市に与えたものの、小夜が心ならずも冨の市に身体を許した後に自死するという覚悟を知ったら、小夜への《義理》に転じて解放させようとする。結局は当初から小夜の身体を奪ったらすぐに縊首するはずだった冨の市に対する《義理》を通して、お島は自ら死を選ぶ。

 (ボクも未整理ながら)お島の言動の過剰さは異様で《義理》に殉じたとしか思えない。他人の思惑など「眼中天地なく、はた人もなく」(同)という自己閉塞ぶりだから、本人は満足して死んでいったのであろうが、常人には理解しがたいだろう。物語を展開して行く狂言回し的な存在であり、結末ではデウス・エクス・マキナ的に決着を付けてしまうものの、本人は死んでいるので代りに小俊がその役割を引き受けることになる。

 

 レジュメに紹介された先行文献を見る限り、それだけ重要人物と思われるお島について読んだ(位置づけた)論文が見当たらないのは不可解だった。少なくともこのテクストに関する限り、鏡花論者は変わり映えのしないテーマをくり返しているだけで、テクストの読みの基本ができていない印象だった。著名な論者・吉田昌志さんが《「無我」の「完全なる愛」と、肉欲あらわな、グロテスクな恋情とは、いわば楯の両面なので》と論じているのはその通りだけど、前者を小夜と秋人の2人・後者を富の市とお島の2人だと位置付けているとしたら間違いだろう。お島は「肉欲あらわ」ではなくむしろ前の2人と同じく、あるいはそれ以上にプラトニックな恋情に燃えていると言ってもよかろう。それがお島の過剰さの現れであろうが、過剰に「肉欲あらわ」な冨の市と対照されている。

 

 (いつの間にか字数が大幅に超過してしまったので、このくらいで。)