【ヒグラシゼミ】千葉さんの感想  バフチンと小林秀雄のドストエフスキー論

 千葉さんから自身でまとめたゼミの感想を書いてもらいました。ボクの感想に対する感想を求めたのではなく、発表と議論に対する感想を頼んだのですが、チョとズレたようです。

 でも発表は意に反してボクの小林論が千葉論に取り込まれていたため、千葉さんの論をボクが要約すると誤解する可能性が高いので、以前「感想」としてブログに記した次第です。

 ともあれ千葉さんの考え方を直接読み取って下さい。皆さんの感想・意見があればお寄せ下さい。 

 
かなり遅くなってしまいましたが、頼まれていた2月の先生のゼミの報告の感想をお送りします。 
かなり時間が経ってしまったので、みなさん覚えていらっしゃらないかもしれません。すみません。 
 
 
「2月の関谷先生のゼミでの私の報告から時間がだいぶ経ってしまって忘れている方も多いと思いますが、今回その報告の感想を書かせていただきました。先生からはだいぶ前に
頼まれていたのですが遅くなってしまいました。 
 
関谷先生の小林秀雄論である『小林秀雄への試み??関係の飢えをめぐって』の第三章の「直接性の救済と呪縛」を拝読し、小林秀雄の(バフチンの対話と対照的な概念である)
モノローグ性がはっきりと示されていて、そこに小林のドストエフスキー読解の問題性もあるが、可能性もあるのではないかというのが2月の報告の私の問題提起でした。途中で
清水や新谷による小林の書いたものにあるポリフォニー性という議論にも触れたので、分かりにくくなってしまって反省しています。 
 
バフチン小林秀雄も、自然主義小説やロマン主義小説などの従来のモノローグ小説にあった、主体となる作者のパースペクティブから対象となる登場人物や作品世界を遠近法の
ように整序するモノローグ性が、ドストエフスキーの作品では打ち破られているということを見ている点では共通しているように思われます。しかし、そのモノローグ性を超える
ものをバフチンは主人公に声を認める作者の徹底的な対話に、小林は透徹した眼によって直接性を獲得する、作者のモノローグの徹底に見出していることを博論では論じました。
 
 
小林はドストエフスキーの作品論である戦後の『白痴』論で、「?景は?て?て?過ぎられて歪んだのである。?わば露出過度の歪像なのだ」と述べています。バフチンは言語の
内包した声というものを分析することによってこのモノローグの構図を超えていく点にドストエフスキー文学を見出すのですが、小林の場合は必ずしも言語に収まらない感覚的・
直感的なものを批評しているように思います。そこから、『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの内面にこだました「デモン」(ソクラテスのダイモニオン)やバフチンの対話を
無化するような主人公の孤絶の経験が語られるのです。 
 
小林のこのような読解の問題点はもちろんありますが、しかしバフチンでは導き出せない小林のドストエフスキー読解の意義もあるのではないかと考えています。罪を犯した人間
の世界から切り離される孤独の実存、人間の意識の深奥にある何ものかである「形而上学的な予感」や、「宿命」のような人間の日常的な生における事物の背後に働く運命性。ド
ストエフスキー文学には、必ずしも理知だけによる明証性では明らかにされない、深層心理や歴史や宗教の洞察によって導き出されるリアリズム、バフチンの意識のリアリズムと
は別の原理にあるリアリズムというものが働いているのではないかと思うのです。このような領域は、眼を徹底させることによって「可視的ではあるが?語化されない領域」(ル
イクリン)であり、バフチンの声の次元では開けてこないのではないかと思うのです。 
 
いずれにせよ、今回の報告では不十分な点が多かったと思います。しかし、今回報告させていただいたことによって、モノローグ的に閉塞していた自分の思考から、皆さんとの対
話によって少し外に出て客観化できたように思います。大変ありがたく思っています。」 
 
 
自由に加工してくださって構いません。 
よろしくお願いします。