【読む】芥川賞  私小説嫌い  市川沙央「ハンチバック」(補足付き)

 今日の昼間、Eテレビの「こころの時代」でだいぶ前に(?)芥川賞を獲った若竹千佐子を取り上げていた(始めのところしか見なかったけど)。「おらおらでひとりいぐも」という表題の作品による受賞なのは知っているけど、どうせ賢治(「永訣の朝」)をパクるなら「オラオラデ シトリエグモ」と方言で表記すればいいのにと思っただけでスルーしていた。そもそも学部生の頃はいざ知らず、芥川賞作品に興味がないままで今日に至っている(だからヒッキー先生(疋田雅昭)の『トランス・モダン・リテラシー』が最近の受賞作を説得的に論じきった論著にはタマげたネ)。

 番組で分かったのは若竹作品が私小説らしいということで、そうと分かれば一段と読みたくなくなったネ。敢えて時代遅れの私小説を書き続けた(と言われる)西村賢太も、受賞作「苦役列車」の冒頭だけ読んだまま放置してその後の作品も読んでいない。どうも私小説と聞いただけで読みたいとは思えないのだネ。作家の実人生を再現しただけのものは面白いとは思えないし、太宰が面白いのは実人生の再現を超える構想と表現の面白さがあるからこそ優れていると思っているからネ。西村賢太の作品の実情は知らないけれど、番組で知る限りは若竹作品は典型的な私小説のように思われてすごく嫌だったネ。

 

 先般芥川賞を受賞した市川沙央「ハンチバック」も読んでないし、たぶん今後とも読む機会はないと思う。理由は単純で伝え聞く情報すべてから、作品に私小説の臭いが感じられるからだ。朝日新聞の「好書好日」という記事(日付のメモを忘れたけど上下の2回の連載で下の方が9月9日だから上は2日かな)によると、この人は病気のために「書く」しかできないと思ってノベル大賞はじめライトノベルやSF、ファンタジーの賞に応募したもののすべて落選、大学の通信課程の卒論テーマで「障碍者表象」に向き合っていたこともあり、《この暗いどろどろをぶつけるのは純文学しかなかろう》と思い立ったのが昨夏だという。

 その結果が芥川賞受賞に行きついたということになるけど、今まで何度も記したとおり芥川賞が他分野を話題にした作品に頼って「文学」全体の本の売り上げを伸ばそうという魂胆を隠そうとしない傾向があるものの(古市憲寿のクソまでが動員されたこともあったナ)、今回の授賞がそれと関係があったか否かは当然不明のままだ。ともあれ市川氏が己の身のハンデをウリにして受賞したのは幸いながら、受賞したらそれまでの恨みツラミが一挙に解消して感謝の気持になったというのは何とも情けない。

 ついでながら「好書好日」の(下)では「主人公の釈華は市川さんと同じ難病で年齢も同じ。これは私小説なのでしょうか?」という問いに対して、市川は次のように応えている。

 《自分としてはせいぜいオートフィクション。重なるのは30%という感覚です。》と応えている。

 

 ボクが言いたいのと同じことを朝日新聞(8月28日)の記事に見出した時はホッとしたネ。山﨑修平さん(詩人で文芸評論家とのこと)の言葉を記事から引用すると、

 《この小説がきっかけとなって障害がある方への理解が進むのはいいこと(略)ただ、それと小説としての評価は分けて考えなければいけない》

 《作中の要素を作者の属性や境遇に引き付けてしまうと、結局は作者に重い十字架を背負わせることになる(略)フィクションである小説というかたちで出された以上は、丹念に読んでいかなければいけない》

ということで山﨑さんの考え方を敷衍すれば、遠くはプロ文全盛時代の「主題の積極性が全て」をはじめとする誤った評価基準は否定されなければならないのは言うまでもない。文学は《善》ではなく、何よりも《美》でなくてはならないからだ。

 山﨑さんは《自身をモチーフにしながらも小説の世界を仮構し、読み手の情をはねのけるような非常にパワフルな作品になった》とも評価しているものの、「当事者小説」という意味では私小説性から免れた作風ではないのは確かのようだ。とすればボクが敢えて読もうという気になれないのも確かだと言うほかないネ。(伝わったかな?)