【読む】山田俊治『〈書くこと〉の一九世紀明治』

 「言文一致・メディア・小説再考」の副題が付された大著が岩波書店から刊行されて(1万円+税)すぐに著書から贈られたのだけれど、序章なりとも読んでから紹介したいと思って読んではみたものの、内容が詰まりすぎて簡単にはいかないまま先送りして今日に至っている。ラチが開かないのでとにかく何が何でも今書くべく自分を強いて始めたところ。そもそも序章を選んでしまったのがハードルを上げ過ぎた元で、5部構成の全17章の概要がまとめられているのだから容易であるはずがなかった。

 本書の内容が少しでも伝わればと思い、全5章の表題を抜き書きしてみる。

 「声と文字・事実という表象・メディアとしての文字・「小説」の一九世紀・近代的「作者」の誕生」

 明治初期の「言文一致」運動以降の流れを想起すれば、上記の章題で展開されている論文の諸相が想定されることだろう。それが従来の論をなぞっているだけなら、本書が存在する必要がないのは言うまでもない。明治文学についてはドシロウトのボクが「内容が詰まり過ぎ」と感じられたのは、初めて聞くような切り口の論じ方で驚かされたり・過剰なまでの視野の広がり方に圧倒されたからだ。

 「メディア」の観点は早くも『大衆新聞がつくる明治の〈日本〉』(2002年)を著している著者ならでは見地ながら、概要のはずの序章にも次々と著名な筆者の名や未知の専門家の著書が言及・紹介されるのだから、筆者の力の入れ方・目配り(気配り)には感嘆するばかり。出てくる著名な名前だけを抜いて大澤真幸水村美苗紅野謙介前田愛柄谷行人デリダ松浦寿輝と並べただけでも、本書の魅力にチャレンジしようとする気持をそそられるだろう。その気にならない若い研究者がいれば、自らの不勉強を現わすだけだ。(個人的な関心と前橋高校卒つながりで言えば、亀井秀雄さんの論著への論究が欲しかったけど。)

 明治文化・文学の専門家の名前は(初耳が多いし)略すけど、文学だけに限らぬ日本語学系の著書・論文に対する言及の多さに筆者の視野の広さが歴然としている。明治文学が「文字」と共に確立していくことを考えれば当然の作業なのであろうけど、勉強嫌いな立場からすればハナから近寄りたくないネ。人間としても研究者としても真摯きわまりない俊治さんだからこその目配りながら、個人的にはやり過ぎと思えるほどの気配りをやっているようにも見えてくる。

 上記の著名な論者の名著からの引用は果たして必要なのかと問うと、単なるペダントリーのようでもあり、文脈上では無くてもかまわないものもありそうだ(若い人向けの案内にはなるだろうけど)。また(注)の(1)などの細かさは俊治さんらしい律儀さの現れなのだろうけど、学生が勉強したものを全てレポートに書きとめてしまう様に似て「要らねえヨ」と言いたくなるナ。

 

 「筆者」がいつの間にか「俊治さん」呼ばわりになってしまったけど、シュン爺(もっとヒドイ呼称かな)は前著『福地桜知』(2020年)をこのブログで大絶賛をしつつ「今年のやまなし賞マチガイなし」と記したらホントにそうなったネ(井上隆の三島の伝記と同時受賞などというのは、審査委員の見識の欠如とも記した)。桜知という人間の魅力にも依拠しながらも、シュン爺の評伝は学問的な精緻さも具えながら抜群に面白いので改めておススメ! しかし今度の大著は「あとがき」の冒頭にも《もともと〈書くこと〉は苦手だった。》と告白(?)されているように、「岩波」という御座敷を意識しすぎたせいもあるのか叙述がオモシロくない。あまりシュン爺の人肌が伝わってこないのは、《読み物》を目差すボクとは違って《研究》を心がける結果だろネ。