【読む】東京新聞の文芸欄  文芸時評はヒド過ぎる!

 東京新聞にして良かった面もたくさんあるけど(長くなるので別の機会に記す)、予想どおり文芸欄は朝日に比してかなり薄弱だネ。特に昨日の夕刊に載った文芸時評があまりにオソマツなので驚いたほど。伊藤氏貴という人が書いているのを読み始めたのだけど、「評」になってないので呆れたヨ。ボクの大好きな作品・大江健三郎「死者の奢り」を枕にしているので喜んだものの、死体処理のアルバイトをする学生と雇う側の医学部との「ヒエラルキーが鮮やかに描かれていた」とまとめてしまうので、何のこっちゃ?!だヨ。朝比奈秋「受け手のいない祈り」という作品を取り上げているのだけれど、「ヒエラルキー」を読み取るのかと思いきや、病院勤務医師の過労死に同情するだけで《現在の医療に大きなひずみがあることは間違いない。》と結ぶのだから、文学作品を《読む》ことができないままの《感想文》に終始している。

 2作目に取り上げた作品では《『死者の奢り』にあった、医学と文学のヒエラルキーはむしろ逆転する》と言うものの、大江作品に「医学と文学のヒエラルキー」を指摘していないので唐突すぎて、これも何のこっちゃ?!だネ。40歳に近い男の専業作家が実母や働いている妻に養われながらも細々と執筆している姿を「のんびりと描いている」と紹介したり、依頼されたエッセイに虚構の「隠遁芸術家」を捏造しようとする「努力はなんとも微笑ましい」などと単なる《感想》を漏らしているけれど、評者の伊藤氏こそ「のんびり」し過ぎているのではないかとため息が漏れるネ。

 3作目は長崎にある島で、主人公が脚に障害がある大叔母と散歩する話で「なんとも羨ましい」という《感想》を記しつつ《こののどかな島も、緊急医療が問題となるときには違った様相を見せるはずだ。》とまとめるのだから、この人は文学テクストをハナから《読む》気持も能力もないのかと呆れるばかりだったネ。論の枕にした大江作品も生かされることなくまさに竜頭蛇尾、まとまりのある文章全体も書けない人なのかな?

 

 肩書を見れば「文芸評論家・明治大学文学部専任教授」と付されているのだから目を疑ったネ。疑ったのは「文芸評論家」という肩書の方で、いったいどこに「文芸評論家」らしい切れ味のある視座や分析があるというのか?! 学部生時代から敬愛する「文芸評論家」である平野謙明治大学の教員だったけど、明治大学といえば今でも学会の運営委員の頃からの親しい知人である松下浩幸さんや、以前ブログにも著書を紹介した生方智子さんという優れた論文を書く文学研究者がいるけれど、伊藤氏貴さんは知らないナ。文芸時評では失格者ながらも文学研究の授業・執筆は真っ当にこなしていることを期待するばかり。

 伊藤氏は今回限りで毎回執筆者が変るのかもしれないけれど、『図書新聞』3259号(2016・6・16)でご存じボッキマン(松波太郎)の作品集『ホモサピエンスの瞬間』を評した際にボクが付したように、

 《研究は生ものを扱わないというのは基本中の基本であり、対象との間に十分な距離を持てた時に研究が始めるからである。》(ブログにもそのままアップしてある)

 ということなンだナ。幸いボクの書評はボッキマンも感心してくれたけど、彼は何度か逃した芥川賞を獲れないまま今や浦和で鍼灸医に変身してしまっている。患者として診てもらう予定もあったけど、コロナ禍で延びたままだヨ。