【ゼミ部】タイヘンな盛り上がりぶり!  「沙漠」の表象をめぐって  (訂正と補足)

 昨日のゼミはオンライン併用と言いながらも、ボクのミスで入室番号などをブログで紹介し忘れてしまったので、参加希望ながらもオンライン合流できなかった人がいるかもしれない、ごめんなさい!(いつものパスワードだったようだけど、エントリーが無かったようだから謝る必要はないかもネ。)

 

 発表者の福井クンがいずれ作品論をまとめる機会があると思われるので、ここでは紹介できる範囲で議論を紹介する。修士論文の一部としての「太陽の季節」論だったけど、修論のテーマと聞いていた《肉体》よりも「東京沙漠」の〈沙漠〉(「砂漠」ではなく)という表記をめぐってかなり突っ込んだ議論が長時間にわたって続けられた。前世紀中東の冒険小説を研究課題にしている杉本クン(法政大学院生)が参加してくれたお蔭で、〈沙漠〉が表象するものが多様性を帯びて追求されて教えられることが多かった。先行研究の視野がいかに狭いまま書かれ続けたかが実感される思い。

 日本におけるボクシングの歴史も意外に古いのに驚いたし、福井・杉本両君がむやみにその歴史に詳しいのも驚いたものだ(よく調べていることだけでなく、調べたものを自身のものにしていることにビックリ)。ボクシングが描かれた文学作品も多く知らないものがたくさんあったし、安倍公房のノックアウトされるまでの〈意識の流れ〉を語った作品名を忘れていたのも(「時の崖」)も思い出させてもらったヨ。

 主人公・竜哉の捉え方も、「父」や「母」というひと時代前の把握の仕方から抜け出て新鮮であり刺激的だった。テクストは大部分が竜哉に一部が英子にキッチリわけて焦点化されていて、冒頭の表現の仕方が意外に受け身の形で奇異な思いだったけれど、発表の竜哉像を聴いたら理解しやすくなった印象だった。福井クンが想定以上にテクストの細部まで読み込もうとしていたのは感心するばかり、ヒッキー先生の細やかな指導の賜物だろネ。

 

(補遺)ゼミに参加したマチルダさんからメールをもらい、ブログでは「竜哉」が「達也」になっていると指摘された。ありがたい指摘で恥をそのまま残さずに済んだので、感謝あるのみ。

 いま訂正しようとブログ記事を見たら、表題の「表象」が「表彰」となっていたので冷や汗だったヨ。

 ついでに補足しておけば、「沙漠」を議論していた最中に金子光晴に『日本沙漠』という詩集があると言ってしまったけれど、後で調べてみたら草野心平が昭和23年に出した詩集の名前だった(「日本沙漠」という作品もある)。