【状況への失言】タンカー等を攻撃したのは?  安倍晋三は世界の《笑いもの》!

突然のニュースで驚いたけど(あまり政治の動きを注視してないので)、安倍晋三が何故イランに行ったのだろう? 完全に世界の《笑いもの》になっていると思ったのだけど、評価する向きもあってそれにも驚いたけどネ。安倍はイランとアメリカの橋渡しという理由付けをしていたようだけど、トランプに頼まれたワケじゃないだろネ? 韓国の文(ムン)大統領のように、北朝鮮に対する理解を進めようとして勝手に渡米し、わずか10分くらい(?)の対応だけでトランプに嫌われ、帰国して韓国国民からもバカにされたのが想起される。

安倍は日本とイラン(中近東)の石油つながりを保つために、トランプの意向に反して(いちおうトランプに断っただろうけど)イランに行ったのかな? 中近東の石油は日本にとって死活問題だからネ。安倍は日本国内よりもトランプの意向ばかりを気にしているので、歴代の自民党首相の中でも取り分けアメリカの《男芸者》に見えるので、下劣さが際立っているネ。ヨーロッパで嫌われ評価も低いトランプの目の色ばかり窺っている安倍晋三は、アメリカ以外ではトランプと同様に嫌われ・相手にされないのも当然だよネ。

笑えたのはイランの最高権力者ハメネイが、トランプに対するメッセージを求めた安倍に対して、「トランプはメッセージを送るに値しない存在だ」と明言したこと。トランプはヨーロッパのみならずイランでもバカにされきっている証左だネ、当然だけど。イラン側からすれば、日本が石油を買ってくれなくなると困るから、安倍の厚かましい要望に応えてハメネイにまで会わせたのだろうけど、それが狂信的な連中の反発を買ったのだろう。でも日本の右翼が汚(けが)らわしいトランプを、世界発の国賓として天皇夫妻に会わせたことに何の反発も示さなかったのは何故だろう? 右翼も背に腹は代えられないというので、名誉よりもカネ(=トランプ=安倍)が大事になったということかな?

 

それにしてもタンカー等を攻撃したのは誰なんだろ? 安倍が訪問してすぐだから、イランの狂信的な愛国者たちだと察するのがフツーだろう。もちろん上からの命令ではなく、単純にアメリカに対する反発から日本の安倍晋三も許せないという気持からだろネ。イラン船が機雷の不発弾をタンカーから外しているとする動画をアメリカがすぐに流したところを見ると、逆にアメリカのデッチ上げに見えてしまうよネ。信頼する高橋和夫(3月まで放送大学勤務)さんが言うのは、犯人はイランとアメリカが友好関係になると困る人々(国)の仕業だろうとするのは同感できるネ。

(と、ここまで昨夜書いたのだけど、何が言いたかったのか、忘れてしまったヨ。)

ヒザ全快!  七七舎の100円古書充実

きのう久しぶりに整形外科に寄ったら(内科に行ったついでに)、主治医から「ついででいいから来てヒザを暖めて下さい」と言われた。事実上の全快宣言と受け取り、独りで自宅で仕事机で祝杯を上げたヨ。例によってそのまま眠りこんでしまったけど。

帰りはいつものように七七舎(国分寺古書店)に寄って新書2冊を買ったヨ。岩波の金達寿(キムタルス)「朝鮮」と、新潮の井上寿一「昭和史の逆説」ながら、後者は京都嫌いで知られるようになった建築家と勘違いして買ってしまったけど、「英雄たちの選択」でも見かけた歴史家だったのでヒマを見つけて読んでみようと思っている。

ボク等の世代は誰でも持っていたと思われる鶴見俊輔たちの『転向』(上中下)全3巻も100円ずつで出ていたし、分厚い『昭和文学批評史』(名前は不正確、全4巻)の中の1冊も100円だったヨ。その他、たくさんの名著が全部100円で出ているから寄ってみることをおススメします。

【観る】三島由紀夫「サド侯爵夫人」  ベケット「ゴドーを待ちながら」

蒼井優とヤマちゃんの話題はもう一段落したかな、それ自体はどうでもイイけど。それにしても2人の間に「格差」を強調し過ぎていたと思うナ、ヤマちゃんはブサイクでも、蒼井優ってそれほどの美人とも思えないのだけどネ。ただし演技力はスゴイ。

ヤマちゃんの性格の良さを強調して「格差」を縮めようと「弁護」した発言が多かったけど、何よりも清潔感があるよネ。有吉やふかわりょう、そしてチョッと意外だったけど若林たちはごくフツーにカネでオンナを買っていると発言しているけど、ヤマちゃんにはその手のウワサを聞いたことないからネ。

ともあれ前振りはそこまでとして蒼井優の演技ネ。数年前にBSプレミアム劇場で「サド侯爵夫人」を放映したのだけど、主役の夫人を誰が演じるのかと思っていたら、童顔であまり適役とも思えない女優だったのだナ。でも観ているうちに惹き込まれていったのは演技の力、それが蒼井優だったしだい。女優は殊の外名前と人物が一致できないけど、改めて蒼井優を舞台女優として認知したネ。

三島は小説よりも戯曲だと思うし、傑作「近代能楽集」の全作品についての論はいま準備中の『シドク Ⅱ』に収録予定だけど、もう1つの傑作「サド侯爵夫人」の上記公演はブルーレイは録画してあるから、希望者にお貸しします。新潮文庫で読んでも三島の戯曲は面白いし、「わが友ヒットラー」とカップリングされているのもお得だヨ。

 

舞台の話になったから、もう1つ。朝日新聞が2度も紹介・特集している「ゴドーを待ちながら」も絶対おススメだネ。20世紀の傑作という評価に間違いはない。太宰の「待つ」を取り上げる時に引き合いに出されることも多いと思うけど、ゴドーという男を2人の男が待ちながら、取るにたりない話をえんえんと続けるだけの戯曲。最後までゴドーは現れないのは、ゴドーがゴッドに類似した響きで救済の表象(と読まれることが多い)だからだネ。(20世紀の)人類に救いは無いというメッセージというしだい。

白水社の『ベケット戯曲全集』でしか読めないと思うけど、図書館にあると思うヨ。高橋康也というスゴイ英文学者が、入院する時の楽しみは「ゴドー~」を(英語や仏語で?)読むことだと言っていたのはサスガだと思ったネ。そのくらい何でもない会話が充実しているということだろネ。ジョン・ダンをテキストにした授業を受けた高橋先生は間もなく逝去されたけど、『道化の文学』(中公新書)は楽しみながらとっても勉強になるからおススメだヨ。

これは死をひかえた頃の尾形拳と串田和美の2人が演じた舞台のビデオを持っていると思うから、お貸しします。新聞で取り上げられたのは、多田淳之介演出で大高洋夫茂山千之丞の2人が演じている神奈川芸術劇場を紹介している。12~23日までだそうで、連絡は

 0570-015-415 とのこと。

男優についても無知だと痛感したけど、大高という役者はテレビで極致に行く係りの人かな? 千之丞というのは狂言役者かな? ボクがナマで観たのは、むかし吉祥寺にあった結城座というマリオネット劇団の公演だった(現在は活動拠点を移していると思う)。40年以上前の吉祥寺は、今とは全然別のひなびた感じの町だったヨ。結城座には何度か通ったけど、狭い小屋にぎゅう詰めにされて坐らされ、汗まみれになって観たのを覚えている。その頃、セントルイスという漫才ペアも「ゴドー~」を演じたと聞いたけど、観てない。

【聴く】昭和文学会・春季大会  「東アジアにおける地理学的想像力と物語の生成・消費」

北園克衛で卒論・修論を書いたミチル姉さんには、個人的に情報を伝えたのだけれど、今回はまだブログに記してなかったことに気付いた。6月15日1時からだからすぐだったネ。

見出しのとおりのテーマが設定されたのは、中国日本文学研究会との共催だからだろう。会場も2つの教室に分けて4本ずつの発表が計8本もあるが、その前に全体で基調講演として横光利一「上海」についての「地政学」からの発表がある(中国の大学教員)。

北園克衛稲垣足穂大岡昇平司馬遼太郎などについての発表があるが、詳しくは昭和文学会のホーム・ページを参照して下さい。

会場が國學院大学で渋谷から近いので行きやすい(バスもあるでヨ)上に、会員でなくても歓迎されるから興味が湧いたらぜひ参加してちょうだい。ボクは拙著の編集に励んでいるから不参加だけど(その代わりに皆さんに参加してもらえれば嬉しい)、大井田義彰・会務委員長がいるだろうからダイジョブだヨ。

夏合宿の日程  6月の釣り部

以前記したけど、1ケ月半後に迫ったので改めて記しておきます。

7月26~28日の金土日の2泊3日(もちろん日帰りも1泊だけも可)で、宿はいつもの北見(1泊2食付きで7000円超だったかな)。

釣り部のメンバー以外でも、常連のリューマン夫妻が全泊で参加すると伝えてきた。あまり大人数になるとムリと言われるので、参加の予定が決まった人は早めに連絡下さい。

 

釣り部では6月29・30日に、去年海が荒れて果たせなかった三浦海岸でボート釣りにチャレンジします。宿も北見と同じくらい安くて料理も充実しているので、おススメです。ボート代も1人3000円もかからないかな。こちらもまだ余裕があるので、希望者は早めに連絡下さい。

【見る】吉田輝星はホンモノ!

また野球の話題でゴメン! とはいえ宇大卒のピリカ(5月連休の釣り部メンバー)が、日ハムのファンであることをつい最近知って驚いたばかり。先日ブログに日ハムに阪神が勝ったことを記したら、とても悲しいというメールをくれたのでビックリ! ガンを克服した原口が活躍したので仕方ないけど、とも付してあったけど。

今日は甲子園で注目された吉田輝星(これでコウセイと読めるの?)が先発するというので、広島相手にムリだろう、せいぜい2回くらいでノックアウトされるだろナ、と思っていたのに何と5回を失点1で抑えて勝投手になってしまった(被安打4、三振も4)。相手投手が安定した力量を示し続けている、大瀬良に投げ勝ったのだからいよいよホンモノと言うほかない。試合終了した時の栗山監督の、本人以上に嬉しそうな顔がまた良かったナ。今日は日本国民にとって、歴史に残る日となった(でもないか)。

試合前の宣言どおりにストレートばかり(8割以上)、それも外角限定で投げているのに、あの強打者揃いの広島の打者が続けて空振りするのだからビックリしたネ。それもショーヘイのようなスピード表示(160キロ)が出るわけでもなく、最速でもせいぜい147キロ止まり。それでも実績のある打者が空振りしてしまうのだから、数字には表れない力をボールが持っているのだろネ。

思い出したのは、大昔の東映フライヤーズ(日ハムの前身)で1・2年だけ大活躍した(1度は20勝)尾崎という投手。小柄ながら小太りな身体でホップするほどスゴイ速球を投げ、東映に優勝をもたらしたという記憶がある。ほとんど直球しか投げない点でも共通していたネ。当時の東映のエースだった土橋(後に監督にもなった)が、並んで投げると自分のボールが遅く見えるので避けたと言っていたネ、よくあるパターンだけど。

ともあれ今日見なかった人は、今度放映される時は必見だヨ、スゴイ投手だ! と言うと2度目は失敗しがちなのが世の中というものだけど。

(ボクが歴代で一番好きな稲尾という、西鉄ライオンズの黄金時代を築いた投手より力のある球を投げるヨ。「神様・仏様・稲尾様!」とまで言われた大投手だけど。)

 

【読む】目取真俊「面影と連れて(うむかじとぅちりてぃ)」論  仲井眞健一  新城郁夫『沖縄文学という企て』

和文学会の催しで会った時に、仲井眞クンから近々『日本近代文学』に「面影と連れて」論が載るという報告を受け、『目取真俊短篇小説選集』全3巻をゲットしておいた。学会誌(第100集)が届いたのでまず作品を読んでおいたものの、拙著の編集作業などのため、論文の方の読みが途中で放置したままだった。10日ほど前に改めて作品を読み返し、論文全体も読んだものの、ヒグラシゼミや拙著の作業などのために感想が書けなかった。

初めて作品を読んだ時の感想は再読でも変わらなかったけど、目取真作品としては並み以下という印象で、この手のものは論じにくいだろナと思った。言うところは、作品に論じさせてくれる力が感じられなかったという意味だ。「水滴」や「魂込め(まぶいぐみ)」のような傑作が有するパワー、あるいはマジック・リアリズミの迫力に欠けているのは明らかで、奥行きの無い図式的な作品世界に見えてしまい、論じようがないという感じ。

批評じゃないから作品の評価をしようというのではないながら、作品に力が無いと論じるのが困難だという偏見を抜けきれないのだナ。自分で論じるわけではないからそれは構わないのだけど、仲井眞クンがこの作品に感銘を受けて論じる興味を覚えて書いたのかもしれないものの、研究者としての力量を付けた印象は受けるものの、論文からは作品同様に面白さを感じないのは如何ともしがたい。仲井眞クンも引いているイクオちゃん(新城郁夫)の小論(『沖縄文学という企て』インパクト出版会)も読んだけど、これも「文学時評」だから作品の魅力を伝えがたいという限界を出るものではなかった。というより作品に魅力が無いのだから仕方ない。

作品を一読して何やら既視感(デジャビュ感)を覚えるのは何故だろう? ヒーローが出自や身分を明かさないままで立ち去り、事件の後で正体が判明するパターンの物語だよネ。遡れば社会主義文学・プロレタリア文学にありがちなパターンじゃない? 遠くはワーグナーの楽劇にもあるけど。もちろんそれがいけないわけじゃないけど、「面影と連れて」では図式に終っている感じでイケナイね。

 

「うち」(沖縄の若い女性)に限りなく優しくしてくれた「あの人」が、皇太子夫妻の沖縄訪問に反対して火炎瓶を投げつけた学生の仲間だったことが、事件後に判明するという運びが単線的すぎるのがボクの不満なのかな? 「うち」がホステスの先輩たちから下半身攻撃を仕掛けるように言われても実行しないし、「あの人」の側からもその手の行為がいっさい示されないというのは不自然に過ぎてもの足りない、というのはボクがスケベ過ぎるからかな? この辺の双方の葛藤をキレイ事で済まさずに泥臭く表現していれば、迫力もリアリティも出てくるのではないかな? 

大昔、那覇の店で泡盛を酌み交わしつつ、イクオちゃんが(指揮)棒振りしながらハミングしてくれたワーグナーの楽劇世界のように、オドロオドロしい性(生)の世界が語られていたらと思うと、「面影と連れて」は淡泊すぎてもの足りないのだ。ワーグナーは媚薬を使ってまで性の世界のオゾマシサを描いているヨ(でもあの時イクオちゃんがウナっていたのは、ワーグナーじゃなかったかな?)。

仲井眞クンの論も種々手を尽くして風呂敷を広げようとしていているところには、論文を書き慣れてきた手応えを感じるものの、いかんせんテクストの言葉がそれに応じきれていないので説得力が殺がれてしまうのだ。例えば森山大道や西山一夫の言説から、写真とは《時によって死んでいく、一瞬一瞬》の「形見」だと引いているけれど、(この把握はつい最近、ヌード写真がらみでミチル姉さんからご教示いただいた見解に重なって面白い)写真論がテクスト考察につながっている感触を覚えないのだナ。

でもこの調子なら、素晴らしい作品に出遭った時に、仲井眞クンの迫力ある論考が読める可能性を感じられるので、次に期待しちゃうネ。