太宰話の内容

9月7日7時から「三鷹ネットワーク大学企画講座」で太宰についての話をすることは以前記したと思いますが、その概要(と自筆のオモシロ講師紹介)は以下の通りです。

今回は前回とは全く違った内容で、「畜犬談」を例にして太宰文学における<笑い>と<他者の不在>という特質を探りたい。
<笑い>は井伏文学のそれとの共通性を確認することになるだろう。<他者の不在>については、同じ無頼派作家である(坂口)安吾文学との決定的な差異を検証する一方で、志賀文学(や漱石・鷗外)との異同を考えたい。
 他の作家達との比較対照が多くなるので盛り沢山の内容になりますが(資料は用意します)、受講するに際してそれなりの覚悟があれば大丈夫です。難しいけどモノスゴク面白くて分かりやすい、というのが私の講義のウリですから、その点はご心配なく!
 安吾文学の<他者(性)>は、評論「文学のふるさと」で言うところの「突き放され」る感覚に通じるものをイメージしていますが、「白痴」の女や「真珠」のガランドウ等を検討したい。
志賀文学においては<他者>と呼べるような存在は無いというのが定説に近いですが、太宰文学ではどうなのかを探ってみたい。漱石の「行人」「こころ」「道草」「明暗」や鷗外の「阿部一族」等にも言及するつもりなのでお楽しみに!


[講師紹介]
関谷 一郎(せきや いちろう) 東京学芸大学教授

群馬県生まれ。東京大学大学院博士課程中退。都立上野忍岡高校定時制教諭、宇都宮大学助教授を経て現在東京学芸大学教授。一橋大学大学院言語社会研究科の連携教授も兼ねる。

東京学芸大学で一番軽い男」といっても、体重ではありません。テクスト(作品)が読めるという点では、日本でトップクラスの研究者であり、かつ教育者です。特に大学では軽視されがちな「教育者」としての言動は、他の類例が少ないでしょう。何にせよ学生を中心にして考えるので、事大主義的な大学教員に対しては常に批判的な姿勢を崩しません。最近はセクハラ・アカハラのやり放題の同僚教員を内部告発しつつ、執行部の尻を叩いているところです。
昔から評価されている学大教員の文学研究のレベルの高さは、私の話を聴けば納得できます。納得したら拙著『シドク――漱石から太宰まで』(洋々社)、さらに『小林秀雄への試み――<関係>の飢えをめぐって』(同)をお勧めします。