次は宮沢賢治だヨ〜

三島をやりたいヒトがもういないというので、来週から『銀河鉄道の夜』(新潮文庫、生協に注文済み)に入ります。
オツベルと象」に決まるまで時間もかかったこともあり、議論の余裕が削られた。
武川イジメに時間を費やしたのは已むをえなかったけど(それだけ挑発的で良かったけど論理が粗い)、議論が核心に入ったのは大方の受講生が去ってからだったのはザンネン。
(昭和ゼミの3人が欠席というのは言語道断だけど、時間が来たらゾロゾロ出ていったけど、今日は明治ゼミ以外にも何かあったのかナ?)
早々と「新聞紙」を選んだ武川クンだけあってレジュメの面白さは刺激的で、末尾の部分が敏子の「想像」だという読みは途中参加の4年の佐藤サン(3年の佐藤クンは欠席)の同意を得た。
ナルホドだけれど、浮浪者の若者まで「想像」の世界の登場人物だとしてしまうとツマラナクなると思う。
これはあくまでも現実の世界で、敏子が目に映っている現実とは異なる「想像」に行ッチャテしまい、手首を掴まれて呑気に「二十年たった」などと勘違いしている中にレイプされてしまう、などと読んだ方がオモシロイのでは。
「想像」と現実をキワドク対立させて読んだ方が、三島テクストには相応しいと思う。
浮浪者の若者は傑作「近代能楽集」(読め!)の「卒塔婆小町」を思わせるが、そこでも現実と「想像」が二重化しているところがオモシロイ。
三島テクストには現実と非現実が二重化されているものがあり(「殉教」「孔雀」「豊穣の海」等)、両様に読めると論じたことがあったのを思い出した(読みたいヒトは来たれ)。


山本レジュメは「文体」を取り上げたのが特徴。
文体論は難しいが、とってもオモシロイ。或いはオモシロイが難しい。
「映像的」に読めるのは引用文の「健康な歯並び」のせいだと解っているところがエライ!
細部を強調し印象付けることで、読者にその場面のイメージを刷り込む方法で、鷗外の歴史小説や龍之介が多用した書き方。
明治初期の文体論は若き日の山田有策先生の研究テーマだったものだが、文体一般論のお勧めは原子朗先生のもの。
これはオモシロイので、研究法でも取り上げることもあるが、原先生の著書はすべて研究室にあるからどうぞ!

@ 肝心の議論を聴けなかったヒトのために詳しく記しました。