賢治もオモシロイ! 5時限が終わってからがスゴイ

賢治はシロウトなのでセンちゃん(岩橋チヒロ)の参加が有り難い。
今日は(も)レポがシッカリ準備していたせいか(名取レジュメの先行研究は特に)、予想を超えて面白かったけど、賢治テクストの多義性の面白さでもあるのかな?
でも特に面白くなったのは、5時限が終わって延長タイムになってからなのはいつも通り。
(というわけで聴けなかったヒトへの補足)
メイさんレジュメで「聞き手」に注目したのは手柄ながら、「語り手」がいつも客観的に語るものではないのは常識だけど、それも一人称の際の問題。
三人称の場合はメイさんの認識でいいけど、一人称の場合は「主観」から逃れることはできないということは、常に念頭にして読まねばならない。
意識的に「主観」を露わにすれば「語り」が「騙り」になるし、「主観」を抑えて客観的に語るように見せながらも秘密を「隠蔽」する「語り」もある(龍之介「地獄変」のように)。
オツベルと象」の場合、「牛飼い」が自分と同レベルの「聞き手」に対してザックバランに語っているという設定を押さえれば、名取レジュメにあるような教訓的な「寓意」を上から目線で客観的に語ったものではないことは明らか。
この設定を名取レポが「おしゃべり」と称したのなら正解だが、サットマンが言うように単なる脈絡を書いた「おしゃべり」の意なら不正解。
末尾の「さびしくわらっ」た理由はメイ・レジュメでは明記されていた通り(ナルホド)、名取レジュメには明記されていなかったので口頭説明。
「自分の失態を反省する気持」が現れたというのもナットク。
「白象」を仏教的な文脈で位置づける(読む)のはツマラナイので(賢治テクストの読みでは常に)避けるべきだろう。
「白」はメイさんが言うように差別的な視線を表象しがちで、アルビノ(白子)と部落差別を絡めるようになっている(のは問題ではある)。
一方では逆差別として、「白」を神聖化することがあるが、このテクストの場合は両方のイメージが重なっているように見える。
つまり「白象」は良い意味の「変わり者」として一目置かれているとともに、「トロイ」感じの表象でもある。
二者択一は基本的に避けるべきなのは、文学テクストを読む際だけではない。
トリックスター」「異人」は一昨年までの近代文学概論では、「和解」論がらみで必ず説明していたのだが、今年の2年生からは授業内容を変えたので教えていない。
というわけで、「異人」ともども来週プリントを配ろうかな、と考えているところ。
赤坂憲男「異人論」は図書館にないかな?

次週は「猫の事務所」