谷崎「刺青」で盛り上がり! 橋下大阪市長の偏頗さ

今まで何度も読んだり議論してきた作品なので、飽きてやりたくなかったのだけれど、受講生からすれば新鮮な味わいのテクストなのだろうから、自分の都合ばかり言ってられない。
でもふたを開けてみたらレジュメも議論も面白くて、さすがに優れものが集結した演習だと楽しめました。
テクストにしばしば現れる「光」に注目したマユ〜ンのレジュメは目の付け所は良かったけど、そこから何を読み取るかという点が不十分で物足らなかった。
もう一つ気になったのは、議論になった清吉の「恋」や「愛情」という捉え方。
テキストにも出てくる「恋」はいわゆる「恋」ごころを清吉が抱いているというのではない、と読むべきだろう。
清吉は娘に対して全人格的な関わり方を望んでなどいない。
単に刺青を施す理想的な対象としてしか見ていない、という読みに落ち着いたのも当然だろう。
ユッコリンが相変わらず意欲的なレジュメを切ってきたが、今回は蜘蛛に焦点化して調べたものをテクストに持ち込み過ぎた感じで、その分だけ説得力に欠けたりリアルだったりで面白かった。
刺青がセックスのメタファーだという捉え方は先行研究にもあっただろうが、蜘蛛の生殖行為を重ねたユっコリンの迫力は説得的だった!
しかし清吉の変身譚という捉え方も画期的(?)だが、娘の変身譚という読みを転倒した点はエライけれど、奇異な感じは拭えなかった。
 僕個人では、「刺青」というテクストは小説ではなく、いわゆる<自足的な歌>に止まるものと捉えている。
語り手が思う存分に己の夢を、自分に都合よく語っただけのシロモノで、小説的展開も無ければ他者を説得する論理と呼べるようなものなどなく、自己完結的に閉じているテクストだと思う。
言い換えれば排他的なテクストで、語り手の美学に同調できない人は読んでいられない(ツマラナイ)作品と言うほかない。
文化が爛熟すると刺青も流行るのだろうし、日本でも一時期流行ったのも爛熟期と呼べる時だったと思う。
それにしても気軽なノリで彫ったオバカさん達が、今頃になって消すのにオオワラワなのも笑える。
今は不景気で文化どろこではなくなって、大阪では特に橋下市長のようなファナティック(狂信的)なモノが、知事在職以来補助金削減・打ち切りなどの文化弾圧を続けていたけれど、
今度は刺青を標的に取り締まりを強化している状況なのは危険な兆候だろう。
ヒットラーが出てきたのも文化の爛熟期で、種々のモダニズム芸術が弾圧されたことも思いだされ、刺青嫌いなボクも橋下の狂信的言動には強い危機感を抱いている。
橋下が公務員を目の敵にしているのは、何かトラウマに似たコンプレックスがあるのだろうけれど、ヒットラーにとってのユダヤ人が橋下の「敵」として設定される心理なのだろう。
狂信とは正反対だった龍馬だったからこそ、狂信的な薩摩と長州とを連合させ得たのだけれど、狂信的な橋下が龍馬の「船中八策」を僭称しているのは不愉快極まることながら、世に多く存在する龍馬ファンが黙って見過ごしているようなのは如何なものか!
あれっ? 何の話だっけ?