プロレタリア文学

モダニズム文学の補足をした後で、プロレタリア文学に入った。
プロ文についてだけでも5時間(コマ)は要するだろうけど、短縮形で講義せねばならない。
明治大正期は幸徳秋水大杉栄に代表されるアナーキズムが主流だったが、昭和期になるとマルクシズムが圧倒的な影響力を持って<左傾化>の時代となる。
まずテキストの「セメント樽の中の手紙」についての読みを聞いたけど、「身に詰まらされる」という感想ばかりで読みにはなってない。
先行研究も知人が書いているので読んでみたが、論を作るのに苦労しているのは伝わるものの結果が出ていない。
ましてやテキストの解説で、妻に逃げられた葉山がこのような作品を書いたのは必然だったと書いてあるのは爆笑もので、おバカと言うほかない。
作家とテクスト(作品)を短絡してはいけない! と繰り返し強調していることを忘れないように! 
読みにおけるパラダイム・チェンジが起きたことを前提にしていないと、バカにされることになる。
作品選びはよくできているテキスト(双文社)ながら、解説は概して間が抜けていることが多い。
ともあれ作品は説得的かつ感動的ではあるものの、論が作りにくいテクストというのがある。
「セメント〜」のような短編にありがちだが、必ずしも短いのが理由とはならないのは「夏の靴」を想起すれば分かる。
物語内容が分かりやすいのが原因なのかもしれないが、多くを語らせてくれるテクストではないのは確か。
葉山嘉樹がとても優れた書き手であることは誰しも認めるところで、「蟹工船」が葉山の「海に生くる人々」を下敷きにして書かれたのは知られている通り。
蟹工船」にも伝わる葉山作品のモダンな表現法(メタファー・直喩・擬人法など)を探してもらったが、プロ文とモダニズム文学の相互乗り入れ(影響)という大事なところは、葉山テクストを検証すると納得しやすい。
その葉山がナップの作家ではなく、文戦派に属していたというのも必然だったと言えよう。
ナップの多喜二のように、イデオロギーに振り回されて才能と命を浪費させられずに済んだ点では幸いだった。
次回は井伏鱒二「鯉」の読みをやった後で、太宰の「魚服記」の読みに進む。
文学史的には、太宰を通して<転向>の時代を講義する予定。
「魚服記」を素材にして、<小説と物語>の差異を覚えてもらった上で、配布した三島由紀夫における<小説と物語>の二重性を説明するつもり。
名の上がった作品を、よく読み込んでおくこと!