作家論的作品論か、テクスト論か?  高等理論のパッチワーク的論文  次回は「セメント樽の中の手紙」

以前にも作家論的な読みを提出した発表者があって議論になった(批判を浴びた)が、今回の藤村の私小説「突貫」でもレポの一人がその類のレジュメを出した。
前にも記したと思うが、基本的には正しい・間違っているという問題ではなく流行りの差異であって、現在の読みの<パラダイム>では作者を排除してテクスト(本文)の言葉だけで読むことが目指されている。
それにしてもN君のレジュメは昭和50年代の先行研究を参考にしつつ、その田中論文から「新生」問題を外したために何の取り柄も無い後退したものになってしまった。
唯一と言っていい岩見照代の論文も渡されて読んだそうであるが、自分とは異なる読み方なので無視したと言う。
1980年代の新理論を援用したパッチワーク的な様相が受け入れられなかったのであろうが、気持は分かるものの頭から無視するというのは研究する者の態度ではない。
「○○によれば」という決まり文句で、○○にさまざまな豪華なカタカナ名(岩見論文ではブランショまでも)を呼び寄せてテクストの断片と繋ぐという論文は今でも見かけるが、概ねが軽薄な印象を与えるので拒絶反応を覚えるという事情は理解できる。
軽薄に見えてしまうのは、もっとも肝心なテクストの分析がイイカゲンだからで、結果的に高等理論とテクストの断片とのパッチワーク(継ぎはぎ)に終始するからである。
岩見論文は、その点ではテクストを読もうとしているし、その結果として冒頭と結末の「………」の意味づけを始め「現在形の多用」など解かれるべき問題を提起しつつ、自分の解釈を提出し得ていると思う。
岩見論文の問題提起を正面から受け止めずに回避し、変わり映えしない旧論を引き出しつつもさらに後退した読みを出したN君とは異なり、斎藤さんは果敢にこの難解な(大仰でもある)論文と対峙しつつ自分なりの読みを追求していたので、その姿勢には学ぶべきものがあると思う。
大きな敵を相手にしていれば、自分も磨かれる可能性がある、ということ。
逃げたり引きこもったりしていると、成長は無いだろう。
テクストの「前へ、前へ」を「事物の内奥へ」の前進と説く岩見論を引き受けた斎藤さんは苦しんだけれど、論文の不明瞭な物言いは責任の取りようがないので、ご苦労様! と言うほかない。
N君はテクストだけで論じるのは困難と言っていたけれど、個人的には戦争・性・他者の目など繰り返されるモチーフで、藤村無しにテクスト分析ができそうな気がするので斎藤さん(達)にガンバッテもらいたい。
それにしても藤村はツマラナイ! という感じを学生時代以来久々に味わった。