東京学芸大学執行部の歴史に残るチープさ加減

海から戻って来たけれど、執行部から何の弁明もない。
行く前に急ぎ足で記したので、少々付け加えておかねばならないこともある。
久保田弁護士の「過去」を確認してから、執行部は改めて今回の私に対する言論弾圧を考え直すよう請求したが、恥ずべき「過去」を持つ人間がすべてが今もその「過去」を問われるわけではない。
むしろ「過去」を自身の生の中に取り込んで(統合して)、新たな道を歩もうとする人間の邪魔をしてはいけないというのが私の考えではある。
しかし今回の性的な問題が絡んでいる久保田弁護士の「名誉毀損」裁判という「過去」を知ってしまうと、久保田氏の私に対する強いバイアスの掛かった質問の仕方に基づいた審査委員会・評議会の決定は、白紙に戻した上で大学(教育現場)らしい<知性と良心>による熟考を促したい。
顧問弁護士が起こしたチンケな問題を引きずった審議に基づいて、いかにもチープに言論弾圧に暴走した執行部こそ、学芸大学の「名誉」を毀損して記録に残ることになる、それでいいのか?
セクハラ疑惑の中某氏の言動を追及した私の文書における「犯人」や「三歳児」等の言葉だけに反応して、シツコク「この言葉はふさわしいと思うか?」と繰り返した久保田氏にこそ、私の言葉が痛く刺さっていたとは!
「仮にも大学教授に対して『三歳児』呼ばわりするのは如何なものか?」と大学教授の「名誉」にこだわる久保田氏の内心では、性的問題がらみで傷つけられた自身の「名誉」が疼(うず)いていたであろうことは想像に難くない。
もちろん久保田氏が意識してセクハラ疑惑の中某氏を弁護するような物言いをしたわけではあるまい。
人間にとって大事なことこそ無意識の底に沈み、その人間にとって決定的な場面においてこそ無意識の底から現れ出て我が身を陥れるものだ、ということは誰でも見聞していることだ。
そうした知見から振り返って、セクハラ問題を久保田氏に託したことが正しかったかどうかを再検討した上で、私の言動を審議し直すのが当然ではないのか?!

執行部から、今のところ何の弁明もない。
おそらく、なりふり構わずイエスマンで固めた評議会の決定を押し通す所存なのだろう。
せっかく恨み重なる関谷の言論を「処分」できるという決定を手放す勇気も知性も持ち合わせないのが、現執行部の体(てい)たらくなのだから。
先に評議会の欠席者(それにしても多かった)の中には、言葉や表現が問われているのに言葉の専門家が一人も出席していない不自然さを指摘したが、私は言葉を専門にしている評議会メンバーに過剰に期待しているわけではないことを付しておきたい。
彼らが執行部の意向で欠席したのではなく、自発的に「良心的欠席」を選んだ可能性もないわけではないが、いずれにしろ彼らに不要なプレッシャーを掛けたくはない。
専門が全く異なるために私の主張が通じない人もいたであろうし、言葉の専門家でありながらも理解できない人がいても不思議はなく、その逆も十分あり得るのは当然。
大学人でいながら私の言説を全く理解できずに執行部の言いなりになっている人は論外、評議会の出席者の中にも理解できていながら「非良心的沈黙」を守らざるを得なかった人もいるだろう。
彼らの苦衷は十分理解できているつもりではある。
記事の繰り返しになるが、昔、蓮見音彦というオバカな学長がむやみに教員を「処分」したがって全学を巻き込み、全学教授会等でメンバーに時間を浪費を強いたことがあった。
その際に第一部部長(今の学系長)だった小池正胤先生は、あらかじめ学長から自分に同意する発言をするように言われながらも、「良心的沈黙」を守った例もあるが、それはまだ大衆的討議が保証された頃の話。
今回のようにいっさい公開もしなければ、議論もしないまま執行部の意向がそのまま承認されるような「トップダウン」形式では、審査委員会や評議会において「良心」に基づく言動(沈黙も含む)もやりにくかろう。
5回ほど連載した記事の最後の会は中途のまま放置してあるが、そこで続けたかったのはトップダウン形式の危うさである。
教授会が権限を持っているとトップの意向が阻まれるという苦い経験を経て、近頃はトップダウンで執行部の思うがままに教員その他の大学構成員を動かそうとするようになってしまった。
まさに「キ○○イに刃物」の喩えそのままである。
執行部の意向が相対化される契機を失えば、暴走するのもやむを得ぬ勢いになるのは必然。
<論理と倫理>(知性と良心)を喪失した執行部が、今さら聞く耳を持たぬのも当然ということか。
東京学芸大学の<知性と良心>は私(達)が大学を「セクハラ天国」にしないように闘うことによって守るほかない、ということか・・・
学大は終わった!!! 
しかし「セクハラ天国」の名を欲しいままにしているチョー有名私立大学(文系)とは差異化される「名誉」は辛うじて守られた。
執行部が<知性と良心>を発揮したお蔭ではない、私(達)が執行部に<知性と良心>の発揮を強いたお蔭で何とか学大の「名誉」が守られてのだ。
にもかかわらず、執行部は逆恨みして私(達)を「処分」して済まそうとしているのだから、呆れるではないか!
東京学芸大学は終わった!
チープな執行部の暴走により、<知性と良心>の喪失を自ら暴露して大学としての生を閉じた!
しかし私(達)がいる限り学大の「名誉」は守られている。
私(達)とはセクハラもイジメも<見ぬフリ>をしない者たちのことである。
教員に限らない、学生も事務員も含めた学大の構成員のうち、<知性と良心>を失っていない者たちのことである。