小林秀雄「近代絵画」が読めた! 次はモネ論

「近代絵画」は小林秀雄研究者の、ひいては近代文学研究の盲点である。
小林の「モオツァルト」にも瞭然としているが、音楽や美術など他分野の芸術論に対して、近代文学研究は無力で手をこまねいているのが現状である。
その証拠に小林の美術論・音楽論に関する論文が、質量共にみすぼらしい限りである。
私と同世代の優れた小林研究者で、共に最近論文集をまとめた樫原修・細谷博でさえ、この分野では完全黙秘を貫いたままである。
お二人に続く世代の小林研究者からも、この空白を埋めるような好論が提出されているわけではない。
吉田秀和という空前絶後(?)の音楽評論家に多大なヒントを与えたという「モオツァルト」はともあれ、「近代絵画」に至っては研究者の側では評価もテクスト分析も手つかずのまま放置されている。
「近代絵画」は昭和30・40年代という時代にこそ啓蒙的な価値があったものの、現代では美術批評としても文学テクストとしても存在価値が無いのなら、ハッキリそう指摘すべきであるし、価値があるならそれを明瞭にすべきであろう。
新潮文庫が絶版になっているのは、一般的には評価されていないことの証左であろうと思われる。)
これは私自身の年来の課題でもあったものの、生来の怠け癖もあって手を付けられずにいたものである。
今年度、立教大院の授業を担当するに当たり、(小林研究の学生との再会もあり)意欲と能力を具えた学生達に期待しながら、己れの怠惰を振り切った次第。
ゼミ形式の授業であるが、当初から小林秀雄や「近代絵画」についてあらかじめ解説めいた先入観を与えるようなことを避け、レポーターの思うに任せた発表をしてもらっている。
最初のレポが選んだのはドガの章であったが、期待以上に充実した議論ができた喜びが「読めた!」という表現になったのである。
ドガ論は小林研究の創始者である故・吉田熈生氏が、「近代絵画」から唯一選んで論じた章である。
ドガの章を取り上げた意図は推察しやすく、サキさんの秀でたレジュメに引用されている吉田論からも読み取れるように、「批評家」がキーワードでドガ吉田兼好と小林自身をつなげられるからである。
小林の自己批評として集約してしまうと、従来の小林研究の限界を脱けられないのでツマラナイ。
じゃぁ、どうするか? ということになると、タカシ君のレジュメの表題に何気なく問題提起されていたように、「絵画を論じる手法についての考察」を徹底させれば良かったのだけれど、本人がそれに気付いてなかったようなのがザンネン!
タカシ君は関谷一郎小林秀雄への試みーー<関係>の飢えをめぐって』を持参していたけれど、その第二章はドガ論の<線>と<色>のアンビヴァレンスとして展開できるかも。
@ 10月1日はモネ論です。
ドガ論の時は、都立中学の先生であるMさん(今年、学大で免許更新講習を受講していた人)も参加して、その学習意欲で学生を大いに刺激してくれた。
現場にいても研究に対する意欲を持続しないと、授業そのものもマンネリに陥る危険が大きいのでMさんに学ぶべし!