中也「夏と悲運」  「とど」ってなぁに?  答をお寄せ下さい!

昨日だったか、学大にスゲエ国語学者がいたという話を記したけれど、直後に当のケン爺から不似合いな感じのする中也の詩句について質問を受けたので、偶然の符合(?)にビックリしたネ。
中也ファンのイチローとしては知らなかった作品なので恥ずかしかったけど、ケン爺は文学の分野でもそういうものを沢山持っていて時々驚かされつつ恥じ入らされるんだネ。
質問はルフランで出てくるフレーズの「とど」の意味とは? というものだけれど、当初は引用されていた1行だけを読んだだけの思い付き解釈で答えておいたんだネ。
手許の岩波文庫には収録されてないし、持っているはずの角川版の中也全集が見つからないと言ったら、ご丁寧に後から詩全体を写して送ってくれたんだからイイ人だというのが伝わるよネ。
一読ひどく感動しちまうような詩なので、ファミリーの皆さんにもこの名詩を知ってもらいたいのでコピーするわけネ。
定年退職後たいぶ経っているのに、こんな詩と共に生きているケン爺のピュアな心の方にもカンゲキしちゃうネ。
作品を知るだけでなく、「とど」の意味を考えて自説をイチローまでお寄せ下さいネ。
ボクも改めて詩全体の中で「とど」の意味を検討するのだけれどネ。
賀状の末尾に記してあるのに、ズーシー(浦島)のように「新しいメアドを教えて下さい」と言ってくるヤツがいるのだから呆れるネ。
ともあれ以下はケン爺からのメールの一部ネ。

早速ですが、「夏と悲運」は、本棚の隅に押し込まれていた集英社文庫『汚れつちまつた悲しみに…… 中原中也詩集』に載っていました。

   夏と悲運

とど、俺としたことが、笑ひださずにやゐられない。

思へば小学校の頃からだ。
例へば夏休みも近づかうといふ暑い日に、
唱歌教室で先生が、オルガン弾いてアーエーイー
すると俺としたことが、笑ひ出さずにやゐられなかつた。
格別、先生の口唇が、鼻腔が可笑しいといふのぢやない、
起立して、先生の後から歌ふ生徒等が可笑しいといふのでもない、それどころ
か、俺は大体、此の世に笑ふべきものがあらうとは思つち
 やゐなかつた。
それなのに、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
すると先生は、俺を廊下に立たせるのだつた。
俺は風のよく通る廊下で、随分淋しい思ひをしたもんだ。
俺としてからが、どう反省のしやうもなかつたんだ。
別に邪魔になる程に、大声で笑つたわけでもなかつたし、
それにしてもだ、先生がカンカンになつてたことは事実だし、
先生自身何をそんなに怒るのか知つてゐぬらしいことも事実だし、
俺としたつて意地やふざけで笑つたわけではなかつたのだ。
俺は廊下に立たされて、何がなし、「運命だ」と思ふのだつた。

大人となつた今日でさへ、さうした悲運はやみはせぬ。
夏の暑い日に、俺は庭先の樹の葉を見、蝉を聞く。
やがて俺は人生が、すつかり自然と遊離してゐるやうに感じだす。
すると俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。
格別俺は人生がどうのかうのと云ふのではない。
理想派でも虚無派でもあるわけではない。
孤高を以て任ずるなどといふのぢや尚更ない。
しかし俺としたことが、とど、笑ひ出さずにやゐられない。

どうして笑はざゐられぬか、実以て俺自身にも分らない。
しかしそれが結果する悲運ときたら、いやといふほど味はつてゐる。

(ケン爺の注記) カンカンのくの字点と「蝉」の旁の「單」がいんちきになっています。これが「夏と悲運」の全編。