鷲田清一もボケたかな? 小林秀雄と中原中也  ランボー

分かっている人には改めて訂正してもらう必要は無いのだけれど、天下の朝日新聞で堂々と誤りが記されたままだとニッポンの恥でもあり、間違われた二人の文学者も落ち着かないと思われるので・・・
(その後、朝日が訂正記事を出したのか否かは知らない。関心のある箇所しか読まないから。)
優れものの鷲田さんの書くものからは刺激を受けられるので、著書も5冊くらいは持っていて読むのが楽しみなんだけれど、ボクと同い年なのでボクと同じようにボケが進行している模様(ボ・ボ・ボ)。
「折々の言葉」を連載していると知って2回ほど覗いたけれど、冴えも面白さも感じられなかったので読むのを止めた。
ところが4月4日に小林訳のランボー「地獄の季節」(最初は「地獄の一季節」という訳だったけど)の有名な一節が取り上げられている、とこの数ヶ月のメル友であるケン爺に教えられてビックリ!
ケン爺(学大名誉教授)が「季節(とき)は流れる、城砦(おしろ)が見える」という小林の訳は素晴らしいと感激していたので、「チョト待てチョト待てお爺さん!」ということになった。
この訳は童話調から感じられるとおり中也の訳であり、秋山駿という中也も論じている評論家が自著の表題にも使っているオシャレな訳し方である。
小林の「地獄の季節」は(たびたび誤訳を指摘されながらも)影響力抜群で、より若い世代に圧倒的に支持されて詩人やフランス文学者を輩出させた訳本である。
小林訳は「あゝ、季節よ、城よ、/ 無疵なこゝろが何処にある。」というもので、そのセック(乾いた)な味わいはしっとり感のする中也の言葉とは正反対とも言えよう。
鷲田さんは思想家としては優れているものの、文学的センスまでは持ちそびれてしまったようで、これほど差異のある二人の文学者の言葉の個性が読み取れなかったものと見える。
それにしても中也の訳はステキだけれど、ランボーらしさから言えば小林訳の方がずっと近いかも。