角田光代も読める!  母殺し?  〈近代〉がもたらした喪失

週の半ばには特別ゼミが催されたり、翌日が恒例の近代3ゼミが予定されているという中でヒグラシを設定してしまったウカツさに責任を感じながらの決行だった。
かつてない少人数で始めたけれど、しだいに参加者が増えたのでチョッと安心できた。
一読した限りではエンターテイメント作家・作品という印象だったので、議論になるのかと心配したものの、レジュメの問題提起に挑発されて想定以上にテクストの読みが深められた。
「つのだみつよ」だと勘違いしたり代表作名が「8月の蝉」かと記憶していたりというレベルのボクとは異なり、「八日目の蝉」でゼミをやったことのあるヒッキー先生が参加してくれたお蔭で角田文学やレポが援用した理論書等についての補足もしてもらえたのも有り難かった。
レポがちょうど中上健次についての論文をまとめているところだったせいか、父殺しのテーマにシンクロするような発表内容となった感じだった。
母子関係を描くことが多い作家のようだけれど、「ロック母」は母殺し(この言葉は議論では使われなかったけれど)かどうかという議論でもあったから、そういう印象を受けたのかナ?
結末の「笑おうとしたら」が母を受け入れたのか(心理的母殺し)、母を拒絶しようとしているのか、という問題と(ここでは)言い換えても良かろう。
いずれ論文化するかもしれないので詳しいことは控えるが、興味のある人はレポからレジュメの余りをもらって欲しい(いつものように余りをボクが預かるのを忘れてしまったので)。

テクストにヘッドホンが効果的に使われていたことから、ヒッキー先生が「自分も昔はヘッドホンを付けてバイクに乗っていたけれど、危ないので止めた。」という例を挙げながら〈近代〉のはらむ問題点の指摘があり、ボクが危険なだけではなくて「途中の喪失」でもあると補足しておいたので、その点を詳しく記しておきたい。
というのも最近は唐木順三が読まれなくなっているのが惜しまれるからであり、「途中の喪失」は昔の少なからぬ教科書に載録されていた表題ながら、唐木の代表作「現代史の試み」のホンの一部だから全体を読んで欲しいからだ(文庫化すればいいのに!)。
たしか「今昔物語」の説話を紹介しながら(にわか悟りをした狼藉者が西に極楽浄土があると知らされて、ひたすら西に向かい果ては海辺の樹上で死ぬという話)、目的地に至ることが優先されるあまり「途中」の意義が失われることが結果する不毛さこそ〈近代〉の問題点だという論だ。
分かり易く言えば、ケーブルカーで短時間で山の頂上(目的地)に着いてしまう便利さは、時間をかけて歩いて登りながら周囲の風景が草花を楽しむ充実感の欠落でもあるということだ。
深いイイ話だと思ったら、唐木を読んでもらいたい、図書館にはあるだろうから。
ヘッドホンについてはそれが一個人が聴くというあり方なので、演奏会などで聴く〈共同性〉の喪失につながるという意味でも〈近代〉がもたらした喪失でもある、ということは言うまでもないだろう。