倉田百三でした

ずいぶん前に「哲学者は淋しい甲虫である。」という言葉が「三太郎の日記」にあるはずなのが見つからない、というボヤキを記したことがある。
誰かの論文指導をしていて思い出したから探したような気がするけれど、それも記憶違いかもしれない。
何でもすぐに忘れやすくなっているのだけれど、つい最近その出典が記されているのを見つけた(のが何に記されていたのかも忘れている、この完璧さ!)。
倉田百三「愛と認識との出発」の冒頭に置かれている「憧憬――三之助の手紙――」の最初の一文がこれであり、「故ゼームス博士はこうおっしゃった。」と続く。
前橋高校時代の国語教員だった斎藤孝弐先生が教えてくれた言葉で、えらく響いたので忘れなかったのだ。
高校2年生の途中までは京都大学に行って類人猿の研究をしようとしていたのに、3年生のクラス分けでは文系志望に換えたのは京大で哲学を勉強しようと思い付いたからだ。
思い付きがその勢いのまま実行されてしまう年頃だったのだろうが、ゼームス博士の言葉に惑わされたせいかもしれない。
手許にあるのは角川文庫の昭和40年の58版発行とあるから、「三太郎の日記」と同じく高校時代に購入して読んでいたものだろう。
三太郎の方が波長が合ったけれど、百三も読んでいたのは覚えている。
周囲の友達が読んでいた様子はなかったので、自分だけが時代遅れで特異だったのかもしれない。
小説はほとんど読まずに、この手のものだけを読んでいたと思う。
もちろん自分の頭がまったく哲学向きではないことに気付くことになるわけだけれど、それは東大闘争という充実した回り道を経てからだった。
それにしても文学とは縁の無い人間だと自覚していたのに、今では他の生き方は思いも及ばないのは、結局回り道して自分に出会ったということなんだろうか?

@ さっきから小澤征爾80歳コンサートで、ベルリオーズ作曲のオペラ「ベアトリスとベネディクト」(原作はシェークスピアの「から騒ぎ」)を聴きながら録画しているのだけれど、意外に楽しめる曲。
 この松本フェスティバルで取り上げるオペラは毎回けっこう面白いことを改めて発見した思い。