『論潮』第九号

隠居の身になったのに、在職中と同じように少なからぬ方々が著書や研究誌を贈って下さるので、感謝の念に堪えない。
先月頂戴した『論潮』は畏友・山粼正純氏が顧問格で支えている女性研究者の雑誌で、金時鐘(キム・シジョン)の大特集号を出したことがあるほどの意欲的な研究誌。
同人に伊藤佐知枝女史が加わってからは、一段とレベルアップした印象だ。
山粼氏が顧問格であるから当然ながら太宰論が目立っているが、中でも既に単著をまとめている(『太宰治の表現と思想』双文社)岡村知子氏が今号にも「畜犬談」論を載せている(読んだのは2週間ほど前)。
岡村氏の論は総じて著書の表題にある「表現」よりも「思想」に重きがおかれている傾向があり、それは指導者の山粼氏の若年の頃とは様変わりした関心の赴くところに重なっている。
最近のIS(自称イスラム国)にしても、一昔前のオーム真理教にしても、無邪気な若者が現実の世界で「思想」を振り回すと危険極まりないことは、我々が強姦同然に知らされたわけである。
文学研究においても無垢な若手が「思想」に興味を覚えると、それに引き回されてしまう結果になりがちであるが、「思想」というよりも「歴史的現実」を重視する岡村氏にもその傾向が濃厚でテクスト(本文)分析が疎かになり、受け入れ難い恣意的な読みに陥っている。
「畜犬談」論の副題は――林信一「愛犬譚」・チェーホフ「カメレオン」を補助線として――と付されれているが、《プロットの大枠が共通している》とあっさり言い切れるほどの類縁性は伝わって来ない。
「愛犬譚」を見出した手柄を評価するとしても、その中心人物「辰巳」の造形には当時のゾルゲ事件を背景していると言ってみたり、彼の絵画作品が落選続きなのは時局に迎合しないからだと推察されると、学生時代によく見聞したアジビラやアジ演説を想起させられてタメ息が洩れる(アジはアジテーションの略)。
続く「二」章ではもっと奔放に思い付きが羅列されるので付き合いきれん! というのが正直な感想。
『犬の帝国〜』とかいう本に「拠れば」という前提で、忠犬ハチ公を典型とする「忠誠心」に対する「私」の嫌悪感を、太宰の年譜的な事実と直結する初歩的なミスを無自覚に犯している。
この何々に「拠れば」というのは「思想」等に憑かれた人がよくハマってしまう落とし穴なので、注意すべきだろう。
できるだけ「拠らなければ」という前提で、手ぶらでテクストに向かって奮闘してもらいたいものだ、溺れる者はワラ(安手の「思想」)をもつかんで溺死することになる。
それはともかく驚いたのは「赤いムク犬」の「赤い」からの連想でコミンテルンまで飛躍しつつ、犬から伝染する恐水病を恐れる身ぶりが「恐露病」に連結されるのだから何をか言わんやだ。
もう満腹で聞きたくもないだろうがもう1つ、ポチへの殺意という悪意は《「私」に対して振るわれる可能性を帯びて、国家的殺意=殲滅の思想という性格を露呈されることになるだろう。》と断じられるのだからタマラナイ。
そもそも「偶然の力によって「ポチ」は生き残り」とも決めつけているけれど、一人称の語りのテクストを言葉通りに受け取ってしまうのも初歩的なミスだと思うがどうだろう?
桐原書店の高校教科書では「畜犬談」を収録しつつ、一人称の騙り(かたり)の例としてテクストの表層とは反する意味を考える機会にしたつもりなのだけれど・・・