【『シドクⅡ』の反響】落語の「芸」という比喩  現在唯一のミス指摘  檀ふみさんにも届けたい

 釣りの準備と賀状書きで忙しいので、書きかけのブログを続ける時間がないかもしれないから、『シドクⅡ』の感想として最高級のものをいただいたので紹介します。ハイレベルの研究者のものだけど、もちろん匿名でネ。落語の語りの比喩などスゴク嬉しい指摘だし、何よりも《開かれた書》という意図が届いた手応えに大満足! 少なくとも自信作の「火宅の人」論は読みなさい! 檀ふみさんも、読めば伝わると思うがナ。

 

 《永らく手にすることができないでいたご著書をようやく読むことができました。

面白く読了しましたが、特に「火宅の人」論には感服しました。小説が中心的に提示する物語ではなく、一見周辺的に見えるエピソードを取り上げて中心を射貫いている手際にほれぼれしました。

 

それ以上に、いつもながらの語り口の自在さに感心しました。それをどう説明しようかと思っていて、ふと落語に例えてみてはどうだろうと思いつきました。ご存じのように、落語は、噺家が物語を語り進めながら同時に声色の使い分けで複数の登場人物を演じてもみせるポリフォニックな芸ですが、それだけでなく、マクラから始まって様々なくすぐりなどに至るまでの、物語とは異次元の語りを混在させるものです。だから、物語が物語として客観的に存在することはなく、(高座にはいつも噺家の肉体が存在することもあって)常にその噺家の芸として受容されるのだと思うのですが、この本にはそのような意味での関谷一郎の芸があると感じた次第です。(先行論文への論評はさしずめくすぐりでしょうか?)

 

自分の論からは「私」を追放しようとしてきたし、三好行雄の教えを拳々服膺してきたわけではないけれど、「~と思う」とは書かないできたのですが、結果として不自由であったかなとは思います。(前に本にするために自分の論を読み返して、「~のである。」の連発に我ながら苦笑した記憶があります。)それはともかく、自分ならこの構成で一冊の本は出せないわけで、そこにも芸の有無があるなと思いました。

三好行雄が『作品論の試み』の「あとがき」に書いていたように、作品論には「出口のない部屋」の問題がつきまとうのですが、この本は、三好行雄の想定したのとは逆の方向に出口を見いだしているように思われました。

 

それと、誤記、誤変換のなさにも感心しました(161ページ1行目の「仮面の私」は「仮面の告白」ではないかと思ったぐらいです)が、最後に至って先輩の先生の校正があったと書いてあってびっくりしました。いい人がいるもんですね。総じて人に恵まれていて羨ましいかぎりですが、それも人徳なんでしょうね。

 

と、まとまらないことを書いて申し訳ありませんが、読後の感想でした。簡単ですが、御礼まで。》

 

 冬休みを利用して読んで、短くても素直な感想をお寄せ下さい!