【状況への失言】《裁く》とは自身が《裁かれる》こと

 大川原化工機の冤罪事件にしても・袴田さんの冤罪事件にしても、事件をデッチ上げた警察・検察側のみならず裁判所の側が被告を上から目線で《裁く》立場にいると思い込んでいるけれど、歴史から明らかになるのは《裁い》ていると思っていた側が冤罪のデッチ上げが露わになることによって、実は《裁かれ》ていることが明確になることを忘れてはならない。国や東京都が目先のメンツがつぶれるのを避けて裁判を引き延ばしたところで、その魂胆の醜さはいずれ歴史が明確にすることになるのは避けられない。

 誰が言い始めたか知らないけれど、十字架上のイエスを《裁い》たと思っていた人々は、今や冤罪によってイエスを殺した側にいることが明らかになっていることをヒトごとならず認めなければならない。他人を《裁い》たと思い込んでいても、実は己自身が《裁かれ》ているということから逃れることはできない。これは冤罪事件のみならず、人が人を評価する場合にも言えることで、教員が学生・生徒を評価する場合にも当てはまるのであって、学生・生徒の成績を出す時も評価する教員は成績を出すことによって、反転して自身が評価されていることをシッカリ認識しているべきだ。

 

 宇都宮大学に在職していた時に、正門で車で通学している学生をチェックしていた教員が強引に「検問」を突破した学生を、当該の教員が処分したいと教授会で提案したことがあった。ふだんは議題を黙ってスルーしていたボクは、その時だけは上記の論理で上から目線で学生を処分するのは教育じゃないと主張して、処分案を下ろさせたのだネ。教授会ではほとんど寝ていたボクがいきなり「正論」を吐いたので、皆さんビックリしたようでスンナリボクの主張を認めてくれたヨ。その時も「事件」を起こしたことのみならず、教員たる我々が成績はじめ学生を《裁く》目線で対処しているものの、実は我々自身が《裁く》ことによって《裁かれる》のだと発言したのだナ。

 その日は勤めが終わってから呑みに行った教員たちの多くが、教授会でのボクの発言をツマミにして呑んだと後で聞いたヨ。ボクとしては、論理は論理として教員が《非対称》な関係にアグラをかいて一方的に学生を悪者にして「処分」を言い張る姿勢にガマンできなかったまでなのだけどネ。「全共闘」だった学生時代に、自己保身だけで生きていたダメ教員に対して許しがたい気持を抱いていた不満を、その時の教員にブツけたというのがホンネだけど、その教員は翌年地方の遠い大学に異動したヨ。