千田洋幸「舞姫」論(17日の授業)

10日も前のことになると、授業内容は殆ど忘れてしまうほど自分が円熟しているのを実感する。
1時前に始めて、5時間目の千田洋幸氏の授業に食い込んでしまった(途中退室は自由)ほどの激論(?)が展開されたのは覚えている。
テキスト所収の千田論に対しては、圧倒されたのか、遠慮したのか、あまり立ち入らなかったので仕向けたら、その「過激」さには及び腰で付いていきにくさを感じた様子。
所収論文の中では比較的新しいものながら、若き日のチダヨーコーの激情がストレートに出ていて衰えぬ(?)若さに驚いた。
オバカな若者が読むと、「舞姫」その他の「古文」は原文を見る(読む)必要は全く無いと誤解しかねない書きぶりなので、要注意!
冒頭「石炭をばはや積み果てつ。」の一文が持つ衝撃は、(「現代語訳」を読んだ後でも)原文に接しないと理解できまい。
さらに古典文学を教室で読む動機づけ、という極めて困難な課題に応えられまい。
ガラにもなく、不案内な国語教育的な発言をしてしまって自笑。

授業は「豊太郎は許せない」という女子院生が多くて感情的なレベルの議論に傾いてしまったが、豊太郎自身は「選んでない」(意識を失っている間に方向付けられている)ことに議題を振ってみたら多少の変化があった。
それでも豊太郎糾弾の勢いは衰えなかったが、テクストを当時の時代状況に置いて考えるという基本を忘れて欲しくないもの。
エリスと母の2極、日本とドイツという2極の間(サイゴン)に<宙吊り>(昔、蓮実重彦が流行らせたターム)にされている(イチロー風に言えば「中庸を選んでいる」)豊太郎(鷗外)の位置取りは、いかにも「舵を取る」人である鷗外を思わせて余りある。
久々に「舞姫」を読んだら、鷗外は最初から鷗外だったのだナ、という感慨を深くした。