学芸大セクハラ事情、その後

金メダリストのセクハラ裁判がはじまり、世間の話題になっているからというわけではない。
(「真相」はともかく、何よりも現役の学生を相手にしたのでは言い逃れはできない、指導者と学生との関係は非対称すぎて「やり得・泣き寝入り」の結果になりがちだから。)
ズーっと学大国語教員のセクハラその他のハラスメントを「内部告発」をしてきたので関心を示されてきた人達がいるのを知りながら、ずいぶんとご無沙汰してしまって申し訳ない思いでいた。
実情は気持が外に行かなかったというのが正直なところである。
締め切りを半年以上遅らせながら先日やっと坂口安吾論を書き上げたので、「サァ、状況への失言を!」とは思ってみたものの、書かねばならないことは溜まっていたのにその気にならないのである。
夏バテもあったのだろうけれど、以前ほど気持が外の問題に向かわないので困った。
トシのせいかとも思ったけれど、論文を書いていた時の内閉的な状態から出られないのだ。
我ながらよほど気持が内向きにできているのだろうと再認識した感じで(笑うなかれ!)、「告発」する元気が蘇らないのである。
高校生までは内向的だと自他共に認めていたけれど、学生時代は時代そのものが外向的だったのに乗せられてノンセクト無党派)で活躍したのは確か。
最終的にはクラスの代表の一人(定員二人)に選出されて、自分でもビックリした。
武勇伝の一端は、定時制高校教員時代に書いた生涯唯一の小説に書いたけど、我が分身たる主人公もおとなしい内向きの学生。(興味があれば読ませます)
学生時代に十分「活動」したから、その後は控えめに生きて行こうと制御していたので、定時制教員の頃はもっぱら教育中心で文学研究も余技という感じ。
ただし主任制反対闘争では、校長と激しくやり合ったのを思い出し、今さらながら顔が火照る。
前任校の宇都宮大学に赴任してからは、「活動」はテニスに限定してのどかな日々を送ったものだ。
学内政治にはいっさいタッチせず、学長その他の選挙などすべてに興味を示さず冷やかな視線を送っていて、組合の執行委員を務めたのも単なるツキアイの上。
教授会でもひたすら静かにしていたが(草野球仲間からイビキがうるさいとは言われたが)、学生処分が話題になると勇んで反対発言をして周囲をビックリさせたもの。
感動的な(文学的な?)「演説」で処分は取り消させたのは良かったが、「ふだんはオトナシイのにねェ」という驚きの反応を聞くと、自分が限定したはずの生き方に反した気がして困った。
学大に来てからも「方針」は貫くつもりでいたものの、何のつながりもない私の赴任を喜んでくれた同僚A さんとのツキアイその他で、学内選挙などで動かざるをえないことが続いたのは憾みが遺る。
定めし人が変わったように見えるだろうと「こんな筈じゃなかった」とハンセイするものの、処分を始め学生に対する抑圧には黙っていられなかったので、意に反しながら外向的なイメージで受け止められているようだ。(ホントは違うンですヨ!)

セクハラ問題で積極的な言動をするようになったのはそうした経緯からなので、静かにしていたい(させてくれ)というのがホンネ。
定時制の頃から今日まで、「心に重いものを抱えている学生」が近づいてくるのは嫌でなく(平均すれば年に一人はフツー)喜んで付き合っているので、教育と研究だけに没頭させてくれ! と叫びたくなる時が最近ではしばしばある。
そういう学生とは卒業後も相談を含めて連絡を取り合っている。
生徒(他人)と一緒に物が食べられないと理由で、実習先の学校から「逃亡」して卒業の可能性を失いかけた宇都宮大生が、卒業後ずっと年賀状で近況を知らせてくれるのがとても嬉しい。
逃れにくい精神的なセクハラを受けていた学大の女学生のために、相手の無自覚な(?)教員に長〜い手紙を書いて解決したこともあった(のを今思い出した)。
セクハラで言えば、定時制で担任していた女子生徒が職場でオサワリされる苦情を聞かされ、職場に乗り込もうと思ったら「仕事がクビになるから止めてくれ」と言われ、歯がゆい思いをしたのは今でも忘れない。
相手が弱者と知ると、己れの欲望のはけ口にしても構わない、という考え方を見逃せないのはいつでも同じ。
被害者はだいたいの場合、「話を聞いてくれるだけでも嬉しい」とは言ってくれるのだけれど・・・セクハラの場合は特に相談相手が欲しいものの実際には告白できる人がいないのが現状のようだ。
にもかかわらず、学大では人望のある女性教員が勇気を持って被害者からの証言を集めてくれたので、セクハラその他のハラスメントが明かされたわけである。

今一番心配なのは閉鎖的な私立高校・中学校で悪戦している昔の卒業生で、家庭内の大問題も抱えているので夫婦共倒れにならないことを祈りながら、この半年以上にわたってメール(時折直話や電話)を頻繁にやり取りをしている。
もう一人気になるのは現役生だけど、期待以上に元気にやってくれているようなので(だよネ?)心配するエネルギーを他の卒業生に回している。
書き上げたばかりの安吾論のみならず、『国語と国文学』という雑誌の4月号に発表した太宰論(志賀論でもある)を書いていた時も、久々に論文執筆に打ち込んだ歓びと充実感に浸っていたら、「早く定年退職して読み書きの生活に入りたい」という強い気持が込み上げてきたものだ。
研究と教育に打ち込みたいというのを主たる理由として、二つの大きな学会の役員を辞退させてもらったしだい。
役員選挙で投票してくれた方たちには申し訳ないながら、先述のとおりやはり学会で外向きな業務をやる質(たち)ではないのは確か。
最近はイジメ問題も露見して議論が活発に行われているが、一番賛同するのは「イジメを知らぬ振りして見逃すナ!」という意見。
というのも学大のセクハラその他のハラスメント問題で、執行部は当初取り上げようとはせず「見ぬ振り」を通そうとしていた向きを感じたからでもある。
せっかく女性教員が被害者の勇気ある証言を集めたにもかかわらず、「昔のことだから・・・」と言って真摯に受け止める姿勢に欠けていたとか。
学内でハラスメントが起きているのを知りながら、執行部自身では情報の収集にも取り組もうとしなかった。
セクハラの被害者は特に悲惨な体験を自分の内部で処理しながら前向きに生きて行こうとするので、時間が経てば経つほどナマの証言は集めにくくなるというもの。
前記のA さんがもみ消したとされるセクハラの被害者は、第三者を介して被害を語ってくれたそうであるが、ナマの証言は断りながら今は「容疑者」以上に被害を訴えた相手のA さんを恨んでいるとのこと。
別の被害者は、最初の証言を求められた時は大勢の委員の前ではあからさまな証言ができなかったとも聞く。
彼女はその後、勇気を奮って新たに証言に赴いたとのことで、頭が下がる思い。
このブログで何度も「セクハラの被害者に被害の模様を語らせるのは第二のセクハラだから難しい」と当たり前のことを繰り返してきた通りだから。
その後の私(達)の言論活動で学内のハラスメントを無視しえなくなり、被害者のナマ証言を集め始めたのであながちダメな執行部でないとも言える。
ただ私のように「見ぬ振り」のできない者による執行部批判に対しては、イヤガラセ行為も怠らないのも「権力者」のいつものパターン。
詳しいことはまだ言えないが、某有名私立大学では執行部の処置に対する反対・批判はメールのやり取りを含めて禁止したと聞くと、今のうちに言えることを言っておかねばならないと思い付いて記しはじめたしだい。
学大の執行部は某私立大ほどオバカではないとは期待しているものの、自分の立場はキチンとしておかねばと思いながらも書いている中に気力も体力も落ちてきてしまった。
しかし図らずも今日、第二の証言に立ったという未知の留学生が私に直接礼を述べたいと伝えてきてくれたので(もちろんそれには及ばない旨は言った)、俄然気持が外向きになり始めて今書いているところ。
以前記したとおり、執行部の武器は言葉の一義性で、両義性の豊かさを認めない。
一例がモンダイの「クレイ爺さん」で、昔の学生は「あのキ○○イが!」と怒りを表していたが、今どきの学生は柔らかな表現で土気色という「クレイ」とキ○○イの両義性で遊んでいて見事。
両義性といえば、私の内向・外向のどちらがホントなのかも一義的には決められないようだ。
というところで時間も無くなった苦し紛れのオチとしよう。
執行部の一人(?)に当たる方が、夏休み前の発言として「昔の学大は居心地が良かったけれど・・・」としみじみ語っていたのに心底から賛同したことを思い出しつつ。