学大執行部批判(公開状)の別ヴァージョン  中仕切り

まだ「公開状」は未完のままですが、状況の方が押し迫ってきたので、取りあえず「中仕切り」(鷗外の随筆名)として「です・ます」調の執行部批判をまとめました。(読みやすい!)
印刷して全学の教員に配布しましたが、教育系の方7〜8名分が足らなくなってしまったので、明日増刷して配りたいと思います(済みません!)
中某氏(達)は大学の紙と印刷機を使ってテキストを作り、一部数千円で売りつけたというアカハラの苦情もありましたが、私は生協で5千円超を使って上質紙(ザラ紙だと大学の紙を使った! と騒ぐ御仁が出そうなので)を購入して印刷しました。
資料編は別に貼りつけます。

【乞う回覧】

セクハラ問題に見る学芸大執行部の退廃と暴挙

 東京学芸大学教職員各位      
                   人文社会科学系教授   関谷一郎

 以下はこの間「関谷ゼミブログ」に連載した「東京学芸大学執行部への公開質問状〜〜
中某氏のセクハラ疑惑について」のダイジェスト版です。その長大な執行部批判をすでにお読みの方を飽きさせないために、例示を含めて文章全体に新味が出るように努めました。
いずれにしろ学大の現執行部(殊に村松学長と大竹副学長)は知性(論理)も教育的観点(倫理)も投げ捨てて暴走しており、その危険な傾向を牽制・批判しているものであることに変わりありません。

 ≪イジメとセクハラ≫

小中学校にイジメによる自殺等が多発して社会的問題にもなっています。どうしたらイジメの発生を防ぐことができるのか、教員養成課程の教員としては他人事(ひとごと)ならず頭の痛い問題です。少なからぬ識者が子供たちに<見ぬフリ>をしないようにアドバイスする記事を目にして、とても重要なヒントをもらった気になりました。ではどうすれば<見ぬフリ>をせずに踏み止どまれるのか? という難問が続きますが、職業柄か私(達)には問いを持続することが課されているように思います。この文書は単に救いようがない執行部を批判するに止どまらず、学校(や社会)からイジメを無くすにはどうしたらいいのか? という生産的な課題を追究してみたいと思います。答えはまだ見えていない難問ですが、有効なアドバイスやご批判をいただければ幸いです。
 昔は近所のカミサンやオヤジが両親の目の届かない所でも行きすぎた悪戯をたしなめてくれたものですが、加速化するネット支配の今日ではそのような目が社会全体から失われています。<見ぬフリ>をしてイジメや種々のハラスメントを放置するように、時代が好ましくない方向に向かっている時こそ、それに抵抗するような教育を目差すのが私たちの取るべき姿勢ではないかと考えます。
 わが学芸大学でもセクハラを伴ったイジメを受け、「心が苦しくて、自殺しよう」と思った事例が身近に起きていました。留学生という最弱者の立場上から、指導教員のゴキゲンをとっているうちに、中某氏はその留学生が自分に「惚れている」というドンデモナイ勘違いをしたらしく、研究室で身体に触ることから始まった挙句の果てには、「書類が欲しければ自宅(東京から1時間半)に来い」と言い張ったそうです。留学生が行ってみたら、家族のいない所でお手製の温泉に入るように勧めたそうです。他に誰もいない所で裸になることを勧められた留学生の恐怖たるや、男性である私の想像を絶するものがあります。中某氏がどのような下心で留学生を一人住まいの自宅に呼びつけて「その気」になっていたのかは、断って帰った留学生に対する態度がその後一変したことで分かります。急に冷淡になり・理由なく大声で怒鳴り(中某氏の特徴的な発作)・修士論文の指導をしなくなったというのです。
「自殺」を考えるまで追いつめられていた時に、幸いにも<見ぬフリ>をしない女性教員に相談することができ、ひと悶着の末に研究室を移ることができました。しかしその後の中某氏は、彼女が授業に出席もし・発表もしたにもかかわらず単位を出さず、自ら指導を放棄したにもかかわらず修士論文指導に関わる単位も落とすという嫌がらせを続けました。彼女の被害証言は修了前のものなので、当時は修了できない不安で眠れなくなったとありますが、今夏の審査委員会の席で自分の証言に間違いないことを再確認しました。
聞き苦しい話で伝えている私もウンザリしますが、もう一例だけ中某氏のセクハラ疑惑を記しておきます。これは15年ほど前の被害ですから、中某氏のセクハラ行為がずいぶん前から見過ごされてきたことになります。それまでにも中某氏にまつわる苦情が学生・事務官・同僚から私に種々寄せられていましたが、さすがにセクハラ疑惑だけは訴えがありませんでした。このセクハラ疑惑が明るみに出たのは、先述の勇気ある教員が<見ぬフリ>をしなかったお蔭です。
この被害留学生の証言によれば(第三者による聞き書き)、中某氏の修士論文指導は遅い時間帯になることが多く、肩を揉ませたり・時には酒を飲みながらの場合もあったとか。終了後も飲み屋に誘われることもあり、ある夜の帰り道で無理やり顔を押えてキスをされそうになったといいます。もちろん中某氏を男性として覚えが無かったので拒絶して、文科省の留学生として訴え出るつもりでいたところ、本来の指導教員(副学長の多忙さゆえ指導を中某氏に委ねていた)から「あとは自分が指導するから口外するナ」と口止めされたそうです。中某氏からは修士論文の口頭試問で、攻撃的な質問をくり返すという嫌がらせを受けたものの無事修了はできました。しかし学大におけるこうした記憶は想起したくないものとして残り、本人は直接の証言を拒否したままですが、第三者を通してでも被害を語ってくれたことには頭が下がります。セクハラ被害者にとってその状況を語ることは「第二のセクハラ」になる、というのは重い事実に違いありませんから。
このケースが残した極めて重大な問題は、学大では教員がセクハラ(その他のハラスメント)をしても教員同士でそれをかばい合ってモミ消そうとする、という教員に対する不信感を植え付けたことです。直接の証言を求められた時に、この被害留学生は証言を拒絶しながらも口止めした教員に対する恨みを強調したそうです。口止めよりも中某氏に厳しく反省させて謝罪させるのが先ではなかったのか、残念で歯がゆい思いです。この留学生が置かれた状況は、イジメを受けた子供が担任等に相談できぬまま(<見ぬフリ>をしている教員は論外ですが)、孤立して苦悩するのと同然です。中某氏からセクハラ(?)やアカデミックハラスメントを受け、留年を強いられたり退学せざるをえなかったという証言も少なくないので驚きましたが、その後は先の受け皿になってくれる教員がいてくれるお蔭で被害が闇に葬られずに済むようになりました。

≪執行部の<見ぬフリ>?≫

上記の証言集(非公開)を集めた教員から許可を得て執行部に渡したのが2011年7月21日ですが、その後の執行部の対応の遅れには不審な思いを拭えません。執行部が被害証言を<見ぬフリ>して放置する姿勢に見えたので、私はブログやメールで批判・挑発することで執行部の背中を押し続けてきたわけです。「学大をセクハラ天国にするのか?」とか、被害者が中国人留学生だったので、大使館等に訴えられたら国際問題にもなるなどという具合に。ところが渋々この問題に取り組んだ執行部が出した結論が、あろうことか解決を促した私を「処分」(未決定)しようとするのですから呆(あき)れるばかりです。嫌がらせのレベルが中某氏を思わせて、知性というより痴性を感じさせる頽廃ぶりですが、それが今の執行部の現状であることを<見ぬフリ>していると、いずれは我が身となるのでご注意下さい。
私を「処分」するために執行部が取った詐術が、動こうとしない執行部を批判して解決に向かわせようとしつつ、一方では中某氏がくり返す種々ハラスメントを抑制するために(文学・芸術がとる方法として)茶化したり諷刺したりした私の言動を、その意図・動機から切り離して言葉が発せられた状況をいっさい考慮しないというものです。言動の背景を漂白して言葉を抽象化して、あたかも私が理由もなく執行部や中某氏を批判・中傷しているかのように決め付け、使われている単語だけを抜き出して「言葉狩り」をするという卑怯な(倫理を欠いた)手口です。己れが罪を問われるべき身でありながら、問うた私に罪を着せようという主客転倒した執行部については後で詳しく批判しますが、執行部の「事なかれ主義」による<見ぬフリ>の姿勢は、事態が悪化して露見するまで放置し・隠蔽しようとする、どこやらの校長や教育長の姿勢と重なります。
数年前の有名私立大学では、女子学生にムヤミにキスをしたがる教員(中某氏と正反対のカッコよさで学界では著名)を事件が起きる前にクビにしつつ、処分反対運動を抑えるために教員同士がメール等で連絡し合うことを禁じたといいます(当該大学の友人からそのころ相談を受けました)。反対運動を抑圧するのは許せませんが、<やり得>対<泣き寝入り>というセクハラ放置の構造を放置しなかった姿勢は、学大執行部とは真逆で参考にすべきところがあるように思えます。被害者に自殺等の重大な事件が起きてから動きだしても後の祭りということになります。

≪執行部における<論理>と<倫理>の欠落≫  

さて審査委員会が出した私に対する「処分」(未決定)は、以下の通りです。煩わしいので法律用語(「申立人」や「被申立人」)ではなく、実名で記します。(本物をご覧にいれる用意はありますから、お「申立」て下さい。)なお「『国語関係の教員』を名乗る怪文書について」は後に付した「資料編」にあります。中某周辺の不可解な人物が、中某氏への支持を訴えてビール券まで配布したという、文章の幼稚さも行為の非常識さ加減も笑えるシロモノですから一読をお勧めします。

A) [原文では1の(2)]関谷は「『国語関係の教員』を名乗る怪文書について」で、「憶測や伝聞のみにより中某を誹謗する署名入りの文書を人文社会科学系の教員あてに配布した。(改行)その文書の内容は、他の人を蔑む内容や差別的な用語・表現などが用いられている。これらの関谷の言動は、中某の人権を著しく侵害するものであり、さらに、関谷は自分の中某に対する言動が中某への言葉の暴力になっているという自覚がない。(改行)また、関谷には、これ以前(平成18年11月、同21年4月)にも中某に対し同様の文章を送付した事実がある。
B) [原文では1の(3)]さらに、関谷が自ら立ち上げたゼミブログにも同様の中某を誹謗した内容が書かれており、その内容は、不特定多数の人が見ることが出来る状況である。
C) [原文では2](審査委員会の判断として)関谷が行った行為は、十分な根拠を持たないままに中某を非難したこと及び差別的な表現をしたことであり、中某の人権を侵害し、中某に対する信頼を著しく損なう行為である。
D) [原文では3]以上の関谷が行った行為は、本学の名誉を毀損し、併せて本学職員としての職の信用を失墜させる行為であり、(学内法の名)に反する。

文句があるなら「陳述」の機会を与えるから、「陳述請求書」に「請求の理由」を伏して提出せよというので、審査委員会の「審査の理由」を事細かに批判したものが以下の通りで、既にブログに引用したもので間に合わせていただきます。時日に迫られて急ぎまとめたものなので誤植その他がある上に、追加したいこともありますが、たった今(10月1日)も明日の大学院授業の準備等が気になるので以下は急ぎ足の記述になります。詳しいことはブログに連載中の「東京学芸大学執行部に対する公開質問状〜〜中某氏のセクハラ疑惑について」で展開したいと思います。<見ぬフリ>をしないためにはどうすればいいのか? という難題の答えは見つかっていませんが、すぐに行動に移せなくても「被害者の立場に意識を寄せる」と自覚することが手がかりになるのでは、と考えています。宿題として「関谷ゼミブログ」に持ち帰るので、ご意見・ご助言をお寄せ下さい。

      




  陳述請求書の「請求の事由」
                             関谷一郎

 審査に関わった人達が、裁いているつもりでいる自分自身の言動を対象化できておらず、自身が弁護士の(学長・大竹副学長の場合)あるいは執行部(審査委員の場合)のイエスマンになり切っていることに気付いていない。あるいは気付きながらも、その後に判断停止(エポケー)している。その結果ひねり出された審査結果の<不当性>は以下のとおり。

Ⅰ 一回限りの委員会で拙速かつ一方的な決定をした上で、それを押し付けるという茶番を演じているだけである。
  
(A)反論の余地が与えられなかった結果、関谷の考え(殊に言動の意図・動機)がいっさい考慮されていないので、ひたすら「憶測や伝聞のみにより」関谷の文書が解釈されている。文書を<意図>や<状況>から切り離して<一義的>に限定しようとしているので、委員会も「審査の理由」も「言葉狩り」に終始するという悪意に満ちている。
(B)関谷が中山氏に対して「言葉の暴力」を発揮する個人的な理由を持たないにも拘らず、今回の文書・ブログに限っては中山氏を茶化しつつ批判することにより、「何をやっても許される」という尊大な自尊心を挫き、セクハラ等を繰り返さないように牽制するという「意図」があったわけである。敢えて個人で立ち上がったのは問題解決の能力が講座を越えており、キャンパスライフ委員会も有効に機能しえなかった上に、執行部が前向きに取り組もうとしなかったからである。
(C)関谷がセクハラ等の被害者を癒し・守るべく闘ったのは、講座構成員に回覧された被害者の証言集で被害者の痛苦を<見ぬフリ>できなかったからである。執行部は法的観点から、証言集が「伝聞」によるものが多いという理由で無視しようとしているのは、被害者に寄り添った言動を追求するという教育的観点の喪失である。

Ⅱ 審査委員会の構成が極めて不適切で、関谷を裁く資格・能力が根本的に欠けている。

(A)一回限りの委員会の出席者は、弁護士を中心に家庭科教育法(大竹副学長)・音楽科教育学・美術科教育学・美術科教育学・環境科学・教職大学院といった面々だけであり、関谷の「審査の理由」の主要な問題である「用語・表現」を論議する専門領域の人が一人もいないという不自然極まる人選で審査が強行されている。
    (人文社会科学系の審査委員の一人は言葉の専門家であるにもかかわらず。中山氏のセクハラ等の証言を集めた教員と婚姻関係にあるため、排除されたものと考えらえる。もう一人の言葉の専門家と社会学の委員の欠席の理由は不明だが、関谷と同学系なので排除されたという「憶測」は可能。)
  (B)出席しなかった委員は、委員会の結果を出席者からの「伝聞」や「憶測」によって関谷を決めつけるしかない手順になっている。

Ⅲ 審査委員会が主体性をうしない、大学人(教育者)としての知性を発揮することなく弁護士の法的判断に盲目的に従っているだけなので、法的観点が前景化してしまって教育的観点が全く欠落している。
  
(A)委員会における弁護士の質問は、関谷の文書における文言を弁護士の意向に沿って<一義的>に限定しようとする無理の繰り返しなので不毛に終わっている。
     弁護士のこの方法は中山氏を追及する場合なら、「セクハラ等をやったか、やらなかったか?」という<事実>の確定の問題なので相応しいであろうが、関谷の場合は<多義的な言葉>の<解釈>の問題なので全く適切ではない。法的観点から豊富な言葉の世界を二者択一的に<一義性>に絞り込もうとするのは「言葉に対する暴力」である。
  (B)教育的観点を放棄し、もっぱら法的観点から関谷の言動を「言葉の暴力」というイメージで彩色しようとする手付きは追及されねばならない。のみならず関谷の文書を文脈から切り離して低レベルの誤読を繰り返す言語理解能力によって、関谷を「人権の侵害」者として「処分」しようとするのは心外極まりなく、
    関谷の「人権」を「侵害」する行為に陥っているということが理解できていない。
  (C)たった一回の審査委員会ながら、弁護士は「時間だから私はこれで」という言葉を残して帰り、代わった大竹副学長がさながら自身その弁護士であるかのように口真似しつつ不毛な質問を繰り返した様は、教育者としての主体性の喪失であり、学芸大学の知性は地に落ちたも同然である。また文書を誤読するのみならず、業務上教えられた通りのルーティンワークの質問を繰り返すことに終始し、時間がきたら立ち去っていく弁護士の「ヤッツケ仕事」ぶりを見ると、そのレベルの弁護士に「一蓮托生」している執行部・審査委員会の大学人としての退廃は目に余るものがある。

Ⅳ  関谷の言動は被害者を癒し・保護しつつ、セクハラが許容されているという大学像から学大を守ろうとしたにも拘らず、逆に「処分」という形で言論弾圧の機会に利用している。関谷の言動からその<意図>が切り捨てられた結果、いわゆる「情状酌量」の可能性の余地を考慮することなく、バカバカしいほど大げさな「処分」をしたところには執行部の悪意ある<意図>が明確に感じられる。

私のような徹底して<学生と伴走する>タイプの教員に、執行部の代わりに中某氏等の不名誉なハラスメントから被害者を守るための、全学的な観点からの言動をさせるような学大執行部の現況は、知性も教育も投げ捨てた末期的な状態という外ありません。10月4日に予定されている評議委員会で、私の「陳述請求書」に対する審査委員会からの反論を中心に、学大の<論理と倫理>を賭けて論議が尽くされることを期待しています。「参考人」を一人連れて行ってもいいことになっていますが、弁護士は不可ということなので一人で闘うことにしました。有効な「参考人」も思い浮かびますが、何よりも他人に迷惑をかけたくないという気持からです。孤立感が皆無なのは、日頃から学生・卒業生との結び付きが信じられているからでしょう。卒業生からのいち早い「支持する」というメールの一つは、ブログで紹介させてもらいました。
中某氏のセクハラ疑惑被害者の一人(未知の人)が謝意を伝えたいと言ってくれましたが、メールで十分と応えたところ直接会った上でというので時日を調整してもらっています。セクハラ問題で発言をしていた今年の2月5日に、被害者と同じ中国の女性留学生(中某氏とは無縁)から以下のようなメールももらって励まされました。原文通り引用させてもらいます。
≪また、昨日先生のブログを見て、血がわいていまし〜〜た。セクハラのコトについて、誰が聞いても怒りを覚えると思いますけれども、自分の意見をブログで公開するのは、おそらく先生以外一人もいないでしょう。今まで先生を一人の学者として尊敬してきましたが、これで先生の高尚な人柄(品格)にもとてもとても感心しています。一人の留学生として、先生にお礼を申しあげたいと思います。先生、ありがとう、先生に出会って、本当に良かったです。≫
予期したとおり写していて気恥ずかしくなりましたが、「被害者の立場に意識を寄せる」と執行部とは全く異なる関谷のイメージが現出するでしょうし、審査の結論も全く異なったものになるであろうということです。
種々の励ましによっても、4日に向かって武者震いが起きてしまい睡眠を妨げられることがあります。教育・研究も妨げられますが、気力は近年になく充実しきっていますから、お付き合いいただいている学大の皆さんにはお気づかいいただく必要はありません。ただし今回のことでご迷惑をおかけしては申し訳ないので、今後人目がある時は親しげな素振りは控えさせていただきますが他意はありません。先に失礼をお詫びしておくだけです。