石井正己『テクストとしての柳田国男』  学生の教員評価  「共同幻想論」批判

学生の教員評価には怪しい、あるいはアブナイ面もあるものの、権力的には非対称の関係にある教員と学生である以上、教員の相対化のために学生の評価は不可欠ではある。
私も教育上、敢えて嫌われるようにすることもあるので、妙に学生評価が高いものは信用できない気がすることもある。
定時制高校の教員をしていた頃、同僚からは軽蔑されながらも生徒にはウケのいい教員がいたが、その理由は彼が(自宅で開いている塾の予習のために)生徒には自習させてばかりさせていたためだった。
自習が多くて試験でも落とされない教員の評判が悪くない(成績良好の生徒からも軽蔑されながらも)のも已むをえないものがある。
石井正己という人も学生評価が高くて、集められた教員の前で「教訓」を垂れるほどの模範教員である、などと言うと嫌味に聞こえかねないが、授業や教育に自信のある私がカナワナイと思ったことがある人である。
学大赴任当時、理想どおりにレポートを返却しようとして卒業式の当日、返却相手を探していたら土屋クン(当時の昭和ゼミ長)に呆れられたのを覚えている。  
答案用紙やレポートを返却しない点が大学教員の堕落の元だ、という意見を耳にしたことがあるが、当時の学大の驚異的な多忙さにかまけて翌年からは挫折してしまった。
私が果たせなかったそのタイヘンな作業を、この石井正己という人はやり続けていると本人から聞いて「負けた」と思ったのである。
(もちろん陰で囁かれるマイナス点は、私相手だからこそ学生が話すのであろうが。)

私同様、石井正己は教育者として優れているだけではなく、研究者として一流の上に属するのを知らない学生もいるのは仕方ない。
ナマの教員と付き合っているとそれだけで満足して、一級の著書を知らずに終わるというのも、それはそれでいいのだろう。
日本の民俗学において柳田国男空前絶後の存在であろうが、その柳田研究においては石井正己が空前絶後という印象を、本書(三弥井書店)においていっそう強くした。
柳田あるいは「遠野物語」に関する書としては10冊目くらいに位置するであろう本書は、私にはとりわけ刺激的で面白い。
氏の著書は出版されるごとに寄贈していただいているが、この若さで(私より10年余り下)単著だけでも20冊という数字が危ぶまれる(怪しい?)ので、頂戴するたびに「誰が書いたのだ?」と失礼な言い方でお礼を述べてきたが、そのつど「自分で書きましたヨ」という弁解(?)が返ってくるのである。
ご存じ「○○(この場合は著書)と女は量より質」というモットーで生きている私からすると、ベンッゾーさん(石井氏)の著書は多すぎるので信用を置けないのだ。
(ベンゾーさんはもちろん「キテレツ大百科」に登場していた大学生だが、より若き日の石井さんの頭髪は雄々しく立っていたのでベンゾーさんを思わせたものである。)
(本書の帯に付された写真の頭髪にはゴマカシを感じるが)髪の毛の勢いと反比例するように石井氏の著書数は勢いづいてきたわけであるが、在職中は贈られるたびに拝読できなかったので柳田論の変遷を追うことはできないものの、今回の書の面白さは石井本の中でも空前のレベルだと受け止めている。
その一因は比較的若い頃の論文が多く収録されているためであろうが、勢いに挑発されて「その気」になって読めるのである。
昔から学生に「卒業するまで吉本リュウメイの『共同幻想論』は読んでおくように」と勧めてきて、最近テレビ番組の特集に対する卒業生たちの反応でその手応えを感じているが、石井本の「序にかえて」には「共同幻想論」への批判も含まれているから頼もしい限りである。
緒論それぞれ刺激に満ちているが、紹介したい言葉に満ちているので一つ一つ取り上げるには無理がある。
「序にかえて」の末尾に「野心の一冊である」とか、震災に絡めて「断言できる」と言い切るベンゾーさんは、きっと髪の毛を逆立てているに違いない。
背筋のように真っすぐに立った頭髪が想像できる人なら、本書を読まずにはいられまい。