昭和文学会・春季大会  大木志門  「黒い雨」

明日の昭和文学会・春季大会なんだけれど、だんだん参加する気持が萎えてきているので、ボクに会える可能性も期待しつつ参加する予定の人(万一いたら)のためにお断わりしておきたい。
常任幹事を降りる時に、代わりに一会員として学会に奉仕するすると宣言したのに申し訳ないけれど、どうも「文学」の話と議論が聴けそうもない感じなので「その気」にならない。
大木さんの発表以外には興味が湧かないのも困ったもの。
その大木さんの発表も前記のとおりで、あまり「文学」めいた内容ではなさそうで・・・(意図的に「文学」を強調しているわけじゃないのだけれど)。
そもそも大木さんが豊田某とかチンケな猪瀬あたりの言動に説得されている様子なのが情けない。
井伏鱒二はスゴイ作家だと思うけれど、「黒い雨」はそれほど井伏らしくなくて成功作ではないと思う。
でも「黒い雨」が発表当時、作家本人が当惑するほど評価された一方、ネタ本の一つとされる「重松日記」がなぜ「文学」として評価されないのか、大木さんは答える用意があるとも思えない。
例え同じテクスト(文面)であっても、評価が天と地ほどに分かれる原因は何か? という困難な問題を素通りしてテクストの類似だけ取り出して騒いでも、豊田や猪瀬のレベルに迷い込むだけだろう。
糸井重里山藤章二(似顔絵描き)がシロウトの怖さを強調していたことがあったけれど、「重松日記」はせいぜいこのシロウトの怖さにとどまることを忘れまい。
太宰がよくシロウトのテクストを利用したことは知られているが、大木さんが「黒い雨」の評価が下がったというほど太宰の「女生徒」等の評価が下がったという話は聞かない。
猪瀬あたりにネタ本を見せれば、太宰も井伏同様に「盗作」したと騒ぐだろうけれど、大木さんも猪瀬レベルに同調するのだろうか?
嫌いな作家の一人・島崎藤村もパクリの名手だと読んだことがあり、誰でも知っている「夜明け前」の冒頭もまんまのパクリとのこと。
大木さんの言う「素材と文学作品の関係」は片手間に触れて済む問題ではなく、それ自体を大会のテーマにしてカンカンガクガク議論すべきことだろう。
大木さんは「権利」の問題として再考すると発表要旨に記しているが、誰の「権利」だろう?
素材提供者の「権利」だとすれば、いっそう参加する気にはなれないのだが・・・
ゼッタイに行かないとは言ってないので、明日になったらどうなるか不明。
でも行かなかった場合に備えて、誰か大木さんのレジュメ(のコピーでも可)をゲットしておいてくれると有り難い。
(ボクは先般の近代文学会のレジュメのセットを、体調が良くないので参加できなかった学大の助手のために土産にしたんだゼ。)