片山杜秀  音楽批評  アルノンクール

片山杜秀というと、朝日の文芸時評を担当し始めた時からブログで危惧を表明してきたけれど、一方では音楽の録音批評欄は以前からステキな評を記していた。
今どきの文芸時評は活躍中の作家でないと「現場」が理解できないのでダメだと痛感したのは、朝日では蓮実重彦小森陽一という文学研究者が続けて要所要点を外し続けた後に、島田雅彦の核心を突いた批評を毎回読んで説得された時だった。
研究者がなまじ文芸時評などやっても恥をかくだけだ、という貴重な教訓は今後忘れてはなるまい。
同時代の文学を理解する困難が分かってないと、自分にもできるとカン違いする軽薄なヤカラがまた現れてしまう。
もちろん作家なら誰でも書けるというわけではないので誤解しないでもらいたいが、同時代の文学状況と方法意識がシッカリ摑めてない作家では文芸時評はできない。
朝日で言えば、石川淳大岡昇平も担当したことがあったけれど、既にボケが進んでいた頃だったので共にツマラナイものだった。
片山氏は何よりも音楽批評家であって文学などに口を出すのは無理だと思っているけれど、時々研究者やボケ作家と比べればマシな批評をすることもある。
しかし音楽批評をやらせると抜群に面白いと改めて感心したのは、今月の批評でアルノンクールとベルリン・フィルの「シューベルト・エディション」についてに評。
アルノンクールのシューベルトといってもピンと来ないけれど、自分の録音録画ノートにはアムステルダム・コンセルトヘボウとの組み合わせで(ということは古い演奏録音か)2番と7番(「未完成」は今じゃ8番ではなく7番に訂正されている)がオープンデッキ・テープに録音されているものの記憶・印象全く残ってない。
それで片山氏の批評だが、7番は「情緒不安定な若者がぶつぶつ言っていたかと思うと急に怒鳴りかける」で、8番の「グレート」ともども「後世の付け加えた甘く厚ぼったいシューベルトのイメージを引きはが」して「孤独と焦燥。等身大のシューベルト」を感じさせると聴きたくなる表現で誘われる。
梅毒で懊悩する若者の「情緒不安定」な「焦燥」がストレートに伝わってくる見事な評言だ。
同時代の文学についても、このレベルで理解できればイイのだけど・・・
ちなみにアルノンクールはノンビブラートによる古楽風の演奏で、モーツァルトその他を全く独自な音で聴かせてビックリさせてくれる指揮者。
カラヤンに嫌われていたそうだけれど、ボクは演出が前景化しがちなカラヤンが大嫌いだから(じゃないけれど)アルノンクールは好んで聴く。
でも自家でFM放送が聴けなくなってから(チューナーの故障)ラジオで新譜の演奏を聴けないので、片山氏お勧めの演奏が聴けないのがザンネン。
テレビで流してくれそうもないし、アルノンクールが再来日するほど長生きして、先年と同じN響でいいからシューベルトを演奏してくれればいいのだけれど。