日本近代文学会春季大会2日目  岩野泡鳴の理論的言説  河田学・久保昭博・中村ともえ・金子明雄・西川貴子  渡辺正彦

午前中も中也論を始め聴きたかったのを抑え、タップリ睡眠をとってから行こうと思っていたのに、前夜眠り損ねて午前中からスッキリしないまま出かけるハメになった。
自宅から5つ目の駅にある会場だというのに、電車で居眠りするほどの状態がそのまま続いてしまった、シマッタ、失敗!
会場内で久しぶりに渡辺正彦さん(年上の方)と始まるまで話せたお蔭で脳が目覚めるかと期待したものの、2本目の発表までは目を開けたまま眠っていたようなもの。
3本目の河田学氏の発表はキチンと聴けた証拠には、「焦点化」という観点からすれば泡鳴の〈理論〉はジュネット的なのに、〈実作〉においては(「発展」から引例されていた)バルの考え方に近いという発表趣旨がとても示唆的で印象に残っている。
河田氏は難問をスッキリした形で整理してくれているだけでなく、氏の使った〈理論〉では〜〜でありながら〈実作〉においては・・・・だという論法は、他の場合にも役立ちそうだから覚えておくといい、使える!
ただあまり方法が意識化されないままに書かれるのはよくあることで、最近フローベルの「感情教育」にも視点が不透明な箇所があると訳者が言っているのを最近読んだので、泡鳴の書法がブレるのも十分ありがちだろうと思えた(河田氏が指摘している問題はもっと深い別次元だけど)。
それにしても外国語文学の研究者が3人も揃っての発表だったので、横文字を始めとして聞いたこともない名前や用語もフツーに飛び出してくるので理解がタイヘンだった(眠気のせいもあるけれど)。
博識なディスカッサント(未だに馴染まない用語だ)の金子さんが分かり易くしてくれたと喜んでいるうちに、金子さんがまた問題を面白く広げてくれるので、ワクワクさせられながらも熟考するヒマが無いまま話も議論も進んでしまうのでジレッタイ、質問・確認したいことが溜まるばかりなのに。
お三方が泡鳴をとても深く読み込んでいたので(久保氏がグループ研究に携わるまでは泡鳴を知らなかったとコクったのは笑えたが、後でレジュメを読んだら理解力十分の人)、自分が予習で感じた泡鳴の論理の強さが間違いでないと安心できた。
とっても手応えを感じながら討論を聴いていたのに、院生の頃から名を知られていた程の生方さんが泡鳴を「マイナー」呼ばわりしたので、泡鳴の名誉のためについ挙手・発言してしまった。
質問したいことは沢山あったが、自分の勉強が足らないための疑義も多いのでそれ等は宿題として、以下の2点はお三方に質しておきたかった。
① 久保さんが泡鳴はミメーシス(再現)的な言語ではなく象徴的な言語を重視したと言っていた一方で、河田氏が泡鳴がシモンズの「象徴主義の文学運動」を逸早く翻訳したことに触れていたので、肝心な泡鳴の言語観に対するパネリストの意見を聴いておきたい。
 シモンズの泡鳴訳は小林秀雄や中也たちに大きな影響を及ぼしていることもあって、泡鳴の言語観には改めて強い関心を抱いた。
② 紹介された研究グループの成果である『日本の文学理論』の目次には泡鳴と高見順の「描写のうしろに寝てゐられない」が並んでいるが、今回泡鳴を読んでみて高見順のこの評論との強いつながりを感じて驚いた。
 泡鳴が順より数十年も前に「描写のうしろに寝てゐられない」と叫んだものが、「一元描写」の主張になったのではなかったか、とまで感じたくらいの衝撃だったが、パネリストはどう考えているのだろうか?
①の問題は簡単に論じられるものではないので、自分で追求しなくてはならないだろう。
②に対して中村氏が、順は「描写」(SHOWING)では満足できなくなって〈語り〉(TELLING)を主張したのだから、別の問題になるのではなかろうかと応じてくれた。
 言葉を置き換えればその通りということになってしまうが、この二つはそんなに截然と区分できるのだろうか? という疑義が改めて立ち上がってきた。
泡鳴は描写の方法を追及したのに対して、順は語りに徹したと言えばそれまでのようでいながら、(懐かしい吉本隆明の言う言語の二面性を引き合いに出せば)言語の持つ指示表出性と自己表出性は描写の言葉にしても語りの言葉にしても可能性として二つながら保持しているのではないか。
とすれば泡鳴の描写と順の語り(物語)とを単純に切り離せないのではないか、という宿題をもらったようで有り難かった。
先の泡鳴の(象徴主義的な?)言語観との関連を視野に入れながら考えなければならないだろう。

金子さんは泡鳴の同時代では藤村(や花袋?)を重視しているように見えたけれど、まさか泡鳴を「マイナー」だという評価はしていないだろう。
同時代の文学界ではバカ呼ばわりされていた向きのある泡鳴であり、予習で読み直した谷沢永一『明治期の文芸評論』の所収論文でもやはりバカ扱いをしていて意外だった。
個人的には白鳥や秋江が好きだったせいもあり、泡鳴は食わず嫌いだったものの、今度小説や評論をいくつか読んでみて論理の強さと小説の面白さに驚かされた(藤村は学生時代から嫌いなまま)。
3人の海外文学研究者を招いて日本文学を相対化してもらいながら、泡鳴を再評価しようとした運営委員会の意図と現実化の努力(と受け止めた)には心からの敬意を表したい。
ひょっとしてこのような試み自体が「文学主義」として否定されなければならないという考え方から、生方さんの発言があったのかもしれないとも(今)思ってみたが、昨日の特集テーマだった「人文知の潜勢力」を始め、昨今は「文学主義者」にとっては味もそっけもない傾向に学会から足が遠のきがちなので、貴重な体験をさせてもらった。
終了後に司会の西川さんが声をかけてくれ、泡鳴の小説の面白さを確認し合えたのも嬉しい限り、お蔭で途中まで読んである「耽溺」や「毒薬を飲む女」を最後まで続ける力になれたのも有り難い。
帰り道では渡辺さんから「一元描写」等の問題は石川淳野間宏にも通じるのだと教えられ(渡辺正彦さんと栗原敦さんは無知なボクにいろいろ教えてくれるインテリの代表)、「文学」の問題で頭がパンクしそうになった状態で帰路に。
1人になって思い付いたのは、泡鳴弁護の発言は泡鳴研究者でもある学大の前任者・大久保典夫氏を再評価することにもなるので、どなたかテンプ先生に会う機会があったらそう伝えてもらいたいものだ。
さすがにまた眠くなったので、これにて。