死にたがる巨泉  安楽死

「野球は巨人、司会は巨泉」と言って売り出していた大橋巨泉というのは俳号で、わが師・三好行雄と同様に戦後に俳句を革新しようとしていたということは知る人が少なくなったようだ。
その巨泉が何度ものガン治療を重ねながら生を保ち続けたあげくが、病院のベッドに横たわっているだけでは生きている意味が無い・死にたいと言っているそうだ。
俳句では大成できなかったものの、(たけしが言う通り何の芸も無いのに)ラジオ・テレビ業界の隙間で稼ぎながら結婚・離婚・脱税・ゴルフ・ボーリング等々好き放題した巨泉が悲鳴を上げている姿は笑えないこともない。
しかし巨泉の弟が日本じゃ安楽死が許されていないから耐えるしかないと応じた、と聞いて他人事(ひとごと)ならぬ感慨が湧いた。
巨泉のように金銭的に恵まれていると最先端の治療を受けられて長生きできるけれど、逆に生きているというより生かされているわけだから、自分の生は自分で終わらせたいと思うのも当然だろう。
世間で平均寿命が延びたと喜んでいるのは、あまりに単純過ぎて共感できない。
科学(医学)の進歩が人に新たな苦しみを課すようになったのは確かだ。
「寿命」より早く死にたくないという気持は他人(ひと)に劣らないけれど、書く(表現する)こともできないで横になっているだけでは生きていることにならない、という巨泉の切羽詰まった気持は痛いほど分かる。
鴎外の長男である森於菟(おと)は医者であり『父親としての森鴎外』という本に「完全に呆けるのが理想だ」と書いていたけれど、最初に読んだ時から同調できなかったものだ。
ボケきってしまったら巨泉の苦しみは自覚できないのだから救われるのかもしれないけれど、他人への迷惑を考えるとそうまでして生きていたくはない。
高校時代に本多勝一エスキモー(今は何というか忘れた)の生活を記録した記事を読み、その衝撃が未だに忘れられない。
確か40才過ぎて「老人」になり、共同体にとって自分が役に立たなくなったと判断すると、銃を持って氷原に自殺しに行くという。
鴎外の「高瀬舟」にはユウタナジー安楽死)についての記述があるけれど、実際にどう判断し実行するかは難しいものの、自分の死は自分で決めたいという考え方は失いたくないと思う。

@ というところでEテレの「スイッチインタビュー」・立川談春vs古川周賢(禅僧)が終ったので、書き方が粗いままながらこれで。