将棋と文学(補足)

来年度は某私立大学の非常勤講師を引き受けたので、そのために嫌いな書類作りが一段落したので・・・

先日「将棋と文学研究会」に参加して安吾を特化して、小林秀雄志賀直哉たちの定石通りの打ち方とは異なり、安吾は定石破りだと察している旨を述べさせてもらった。
安吾を特化し過ぎることには同調しかねるという、発表者の近藤さんの言うことはごもっともながら、このところ安吾を特化せずにはいられない気持が続いている。
将棋には全く関心が無いシロウトの勝手な想像からの思い付きなのだけれど、その延長から(というより飛躍して)定石型の文学者はミメーシス(模写)ができるけど、安吾のような定石破りにはミメーシスが上手くできないと早口で述べさせてもらった。
実は最近完成稿を送ったばかりの「ダス・ゲマイネ」論でも同様の趣旨のことを付しておいたので、6月刊行予定の『太宰治研究 25』(和泉書院)を楽しみにしてもらいたい。
とはいえ、そこでも結論めいた言い方を論証抜きでしてしまったのをハンセイする気持は保持し続けている。
というより、思い付きを打ち上げておけば、怠惰な自分でも少しは安吾に打ち込まざるをえなくなるという算段もあっての上での放言だ、というのも逃げ口上ではない。
初期の「風博士」や「木枯の酒倉から」はもちろん、フォークロアの系譜である「紫大納言」や「桜の森の満開の下」だけではなく、現実世界を対象とした作品でも安吾の筆になると即物感(リアリティ)が伝わってこないといつも思っている。
小林秀雄は「志賀直哉」(昭和4年)で、直哉の〈見ようとしないで見ている眼〉に注目しているけれど(関谷一郎小林秀雄への試み』第3章を参照のこと)、直哉の「眼」はもちろん、それに着目した小林の「眼」もシッカリ物を見ている感じが伝わってくるのに、安吾にはそれが欠けているという感じ。
現実に存在する対象を見る「眼」が弱いというより、対象よりも己の内部世界に関心が引き寄せられて行ってしまう印象なのだ。
自伝的作品でも、回想される世界がアイマイで人物像も十分伝わってこないのでもどかしさが残り、結果として独りよがりな想像(空想)としか思えない。
文字通りの印象としてしか語れないので、安吾作品を読み進めながら〈ミメーシス〉が不得意なことを裏付けてみたいと思いつつ、なかなか果たせないでいる。
(定石タイプであろうし、ミメーシスもできる)太宰には飽きたけど、定石破りの安吾には惹かれ続けているので集中したいとは思っている、今年こそ! などとネ。
画家を例にすれば、デッサン力のあるのが直哉たちであり無いのが安吾だということになる。
もちろん出来上がった個々の作品で評価すべきなのは当然なので、デッサン力がまるでシロウト並みのルソーでもピカソのように評価する向きもあることは知っている(一番嫌いな画家だけど、マチスも)。
当のピカソが幼いころから画塾の教員だった(?)父親が驚くほどデッサン力があったのは、14歳だったかに描いた絵でも知られている。
だからピカソの多様な変幻ぶりの根底には見事なデッサンの力が秘められていて、デフォルメされた世界を支えていることを忘れてはなるまい。
安吾の作品にはどれもこのデッサンが下支えしている感じが伝わってこない、ということを言いたいのだけれど・・・もちろん安吾の作品は好きという前提ながら。
『晩年』で種々さまざまな方法を実験している太宰を始めとして、新感覚派横光利一川端康成も方法意識が強いながらも、根底にはデッサンの基礎ができていた作家だと理解している。
それに比べると、安吾作品からはこのデッサンの能力よりも空想(想像)の飛翔力の強さと楽しさが感じられることが言いたいのだけど、伝わったかな? 眠くなったのでここで終わるけど。


(訂正) 上記のままお世話になった小谷瑛輔さんに送ったら、「定石」は囲碁の表記で将棋の場合は「定跡」と記すのだとご教示いただいた、吾ながら無知で困るけどメンドクサイ世界だナァ〜。